僕は空に見惚れていた

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僕は空に見惚れていた

 ずっと、後悔していた。  あの日、あの橋の上で、僕はすべてを打ち明けるべきだった。  茜色に染まった空と、漂う雲、  橋の下を流れる川と、爽やかな風が吹き抜ける河川敷、  慣れ親しんだ街並み、  遠くに蒼くそびえる山々に、沈みゆく夕陽、  そして、夕陽に照らされる彼女の頰。  そのすべてが、今も僕の記憶にこびりついている。  僕たちが最初に出会ったのも、確かあの橋の上だった。  小さい頃から画家になりたくて、田舎の芸術大学に入学した僕は、慣れない土地に元々の人見知りをする性格もあって、中々周囲に馴染めずにいた。  そんなある日、いつものように大学から下宿しているアパートまでの通り道にある橋を渡っている最中、ふと眩しさを感じて顔を上げた。  その瞬間、目を奪われた。  山間に沈む夕陽を見て、本能的に綺麗だと感じた。  僕がそのまましばらく立ち竦んでいると、唐突に背後から声をかけられ、僕は仰天して跳び上がった。  そんな僕の姿を見て、彼女は一瞬キョトンとした後、堪え切れないという風に笑い出した。  ひとしきり笑い終えた後、彼女は不意に穏やかな顔になって言った。 「ここから見る夕陽、綺麗だよね」  僕は虚を突かれて固まった。  夕陽に見惚れていたことに気づかれて恥ずかしいやら、同じ感想を持つ人が居るという事実が嬉しいやらで、僕は咄嗟に何と返事をすれば良いのか分からなくなった。  そんな僕を彼女は不思議そうに覗き込んでくる。  その夕陽に照らされた顔がやけに魅力的に見えて、僕は思わず顔を背け、そうだね、とだけたどたどしく答えた。  その後少し話をして、僕たちは帰路に着いた。  アパートに向かいながらぼんやりと考えを巡らせていると、ふと、彼女が僕より前からあの橋から見える夕陽の美しさに気づいていたであろうことに思い至って、なんとなく彼女に興味が湧いた。  それから彼女は度々僕に世話を焼いてくれるようになった。  身体が弱く体調を崩しがちな僕を、彼女はいつも気にかけてくれた。  僕が描く絵の題材探しを手伝ってくれたりもした。  逆に僕は漫画家志望らしい彼女のネタ探しに付き合ったりもした。  そんな関係が1年ほど続いた。  その中で、僕は段々と彼女に惹かれていった。  その表情や仕草が、その感性が、時折見せる繊細さが、どうしようもなく愛おしいと思った。  僕が人生で初めての告白をしたのもあの橋の上だった。  たどたどしくてまとまりのない告白を聞いて、彼女は最初くすくすと笑っていたが、次第に嗚咽を漏らし始めた。  僕はどうしたら良いのか分からなくなって、あやすように彼女の頭を撫でた。  彼女が泣き止む頃には夕陽はとっくに沈んでしまっていて、彼女の表情は夜の帳に隠されてよく見えなかった。  でもきっと出会ったときのように、穏やかに笑っているのだろうと思った。  それから幾年かの月日が流れて、僕たちは卒業を迎えていた。  僕は念願が叶って、パリへの1年間の留学の切符を手に入れた。  でもそれは、同時に彼女との別れを意味していた。  それでも彼女は僕の夢を応援してくれた。  そして、自分も夢を叶えるために頑張ると、泣きそうな顔で宣言した。  あの日も出会った日と同じ夕陽が、僕たちを照らしていた。  あの橋の上で僕たちは指切りをして別れた。  1年後にまたこの橋の上で会おうと約束して。 「頑張ってね」  彼女は出会ったときと同じ穏やかな表情で言った。 「そっちもね」  僕はそれだけ答えて踵を返した。  それ以上は泣いてしまいそうで彼女の方を向いていられなかった。  何より僕以上に涙もろい彼女はきっと今泣いているはずで、最後に見られる表情が泣き顔なのは不本意なはずだから。  でもきっとそのとき僕は、もう一度振り向いて、すべてを話すべきだった。  それから1年が経った。  あの橋の上に彼女が立っている。  彼女は少し不安そうな表情をしていたが、僕を見つけると途端に穏やかな笑みを浮かべる。  僕は彼女に駆け寄り、力強く彼女を抱きしめた。  慣れ親しんだ風景が、吹き抜ける風が、僕たちを祝福している。  僕は筆を置いた。  キャンバスは病室の窓から差し込む夕陽を受けて色めいている。  エアコンから吹く風が絵の具の匂いを僕の鼻腔に運ぶ。 「——さん、——さん」  看護師が僕を呼ぶ声が聞こえる。  どうやら絵を描くのに集中しすぎて気がつかなかったようだ。  でもお陰でようやく完成させることができた。  この絵だけは、どうしても完成させたかった。 「また絵を描いていたんですか?あまり無理をなさらないでくださいね」  看護師が諌めるように言う。 「すみません、でも、ようやく完成させることができました」  1年間のパリでの生活で、日常会話くらいなら普通にこなせるようになってきた。  入院して間もないうちは、自分の状態を伝えることすらもままならなかったものだが。  そもそも僕がパリに留学したのは画家修行ももちろんだが、かねてから患っている難病の治療のためでもあった。   専門医が殆ど居ない分野であり、手術のリスクも高く、たとえ手術をしても良くなる可能性は少ないと言われていた。  だからずっと言い出せないままだった。  最後まで切り出すことができなかった。  僕に裏切られたと恨んでくれる方が、死の重荷を背負わせるよりもずっと気が楽だった。  それでも、どうしてももう一度会いたくて、あの風景を絵に描いた。  それは僕の叶うはずのない希望だった。 「これは日本の風景ですか?」  看護師が尋ねた。 「ええ、僕が1番綺麗だと思った景色です」 「綺麗な夕陽ですね」  キャンバスに描かれた山の合間から差し込む太陽を見て、看護師がため息混じりに言う。  僕はそれを聞いて顔が綻ぶ。 「それ、本当は——」  窓の外で風に揺られていた木の枝から、木の葉が1枚舞い落ちた。
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