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都内で個展が開かれていた。
ギャラリーはまばらで、じっくり作品を見るというよりは、軽く歩きながら見て回る人が多かった。
そんな中で、ある作品を一人の女子大学生が立ち止まって見つめていた。
その作品は、真ん中にハンバーグが描かれており、その手前に、お茶碗に入った白米、みそ汁、ハンバーグの奥には透明なグラスに入ったお茶とほうれん草のお浸しが描かれていた。作品のタイトルは『昨日の晩御飯』。見たままであった。
その女子大学生は作品を見ながら、昨日の晩御飯を思い出そうとしていた。なので決して、作品に魅了されているわけではなかった。
やがて彼女は昨日の晩御飯を思い出す。
そうだった、カレーをスパイスから作ったんだ。思い込みもあるかもしれないけど、ルーで作るよりも美味しく感じた。やっぱりスパイスから作った方が…
「深みがある」
思わず彼女は声に出してしまった。
思い出して満足した気持ちと、長い間『昨日の晩御飯』というタイトルの作品を見ていた自分に恥ずかしさを覚え、彼女は少し早足で立ち去った。
彼女が去ってすぐ、品の良さそうな老人がその作品の前に立った。
その老人は美術館や博物館、個展を巡るのが趣味で、定年退職してからは今まで以上に趣味を楽しむようになっていた。そのため、今回もふらっと立ち寄ったのだが、奥行きのある作品は無いなと感じていた。
そんな中で、一人の女性が真剣な顔で作品を見ていた。どんな作品だろうかと近づいてみると、女性は「深みがある」と言って去っていった。
この個展にそんな素敵な作品があるのかと期待しながら作品を見た老人は、思わず腕を組んでしまった。
作品のタイトルは『昨日の晩御飯』。定食屋のメニュー表みたいだな、としか感じなかった。
あの女性はこの作品のどこに深みを感じたのかと、老人は悩んでしまった。
普段は気に入った作品だけをじっくりと見るタイプであったが、美術鑑賞が趣味といっているだけに、あの若い女性が感じた深みを理解できないのが癪だった。なので、どうにか深みを感じようと、老人はその場からなかなか離れなかった。
最初の方は、最近は魚ばっかりでハンバーグなんて久しく食べてなかったな、とかそんなことしか思いつかなかったが、やがて納得のいく結論を出すことができた。
私が若いころは、こんなハイカラなもの頻繁に食べることができなかった。今の時代は食も豊かになり、環境も大きく変わった。それに伴って人々の心も変わっていっているのかもしれない。変わるべきもの、変わってはいけないもの、それらをちゃんと区別してこれからも…
「生きていこう」
芸術なんて解釈は人それぞれだが、この作品はきっとこういうことを伝えたかったのだろう。作者の気持ちが分かった気がした老人は、満足して去っていった。
老人が去り、作品の前に青年が立った。
その青年は、この後初めてできた彼女とデートをする予定だった。しかし、あまりにも張り切り過ぎて一時間早く待ち合わせ場所に来てしまったため、時間を稼ごうとなんとなく個展に立ち寄った。彼には芸術がまったく分からなかったが、ある作品を見ていたおじさんが「生きていこう」と呟いていたので、そんなにも生命力溢れる作品があるのかと、興味を持って近づいてみた。
その作品のタイトルは『昨日の晩御飯』。ハンバーグにかかっているのはデミグラスソースか、という感想しか出てこなかった。
この作品を見て、どこで「生きていこう」と感じたのか。
本来であれば、そんな真剣に考えることでもないと割り切って立ち去っただろうが、残念ながらデートまで時間が余っていた。なので、暇つぶしもかねて作品の真意を考えてみることにした。
ただ、どれだけ考えても、デミグラスソースか、という感想しか出なかった。青年はデミグラスソースよりも、大根おろしやポン酢がかかった和風ハンバーグの方が好きだったからだ。やがて彼は一つの結論を出した。
そうだ、あのおじさんも俺と一緒で和風ハンバーグ派だったんだ。和風ハンバーグが出てくる前は、デミグラスソースとハンバーグの組み合わせが主流だったかもしれない。それでも誰かの手によって、ポン酢とハンバーグは運命の出会いを果たした。おじさんはその出会いに感動したんだ。これから先の人生、あのおじさん自身もそうだろうし、周りの環境もそうだが、色んな出会いがあることだろう。それをこれからも楽しみに生きていこうと感じたんだ、きっと。そう考えたら俺も同じだ。彼女と出会えたことも運命。大切にしていかないといけない。急に彼女が愛おしくなってきた。俺は彼女を…いや、カンナのことを…
「大切にしよう」
期せずして彼女への想いが強くなった青年は、一刻も早く待ち合わせ場所に向かうべく立ち去った。余談だが、待ち合わせ時間まであと40分も残っていた。
青年が立ち去り、その後ろから四十代ぐらいの夫婦が作品の前に現れた。
「あの男の子、大切にしようって言ってたな」
夫が不思議そうな顔で呟いた。
「あなたが描いたんでしょう。この作品」
妻が微笑みながらそう言った。
この個展を開いた、つまりこの作品の作者は彼だった。個展の様子を妻と一緒に見ていたのだが、この作品だけ、真剣な顔で長い時間見ている人が多かったので不思議に思って見に来たのだ。
「ええっと、作品のタイトルは『昨日の晩御飯』か。一見するとひねりのない作品っぽいけど…」
「ああ、この作品は…」
「ちょっと待って。私、この作品が伝えたいことを考えてみるわ」
彼女は顎に手を当て、まるで名探偵のように考え始めた。
夫が絵を描いているが、彼女は絵画に興味がなかった。ただ、推理小説が好きで、物事の真意を追求することは好きだった。これはもはや、彼女にとって謎解きだった。この謎は私が解いてみせると、心の中で誰にでもなく誓った。
この謎を解くヒントとしては、あの青年が残した「大切にしよう」という言葉。あの男の子は結構長い時間作品を見ていたし、わざわざ個展に来ているぐらいだから、芸術的なセンスがあるに違いない。なので、この作品の意図を汲み取ったのだろう。よし、謎は解けそうだ。
真剣な顔で考え込んでいる妻を、困った顔でじっと夫が見ているという不思議な時間が数分続いた後、ついに彼女は満足そうな顔で夫を見つめた。
「謎は解けたわ」
「謎…?」
「この作品の肝は晩御飯のラインナップ。主役であるハンバーグは洋食。でもそれ以外は和食になっている。今の時代、海外から日本に来る人も増えていて、国際的な繋がりが重要視されているわ。でも、同じ国に住んでいても、一人一人の生活する環境は違う。だからこそ、国の違いだけじゃなくて、色んな違いを認めて繋がりを大切にしていかないといけない。国際的な繋がりもそうだし、日本の中でも、もっと小さなコミュニティでもそうだわ。この作品では、洋食でも和食でも一つの食卓に並んでいる。だから、人間も同じように違うものと一緒に並ぶことができるはず。それをこの作品は伝えようとしているのね。そうでしょう?」
清々しい顔をしている妻と対照的に、夫は苦々しい顔をしている。
「いや…全然違う」
「え、そうなの。じゃあ、どういう意図よ」
彼は非常に言いにくそうだったが、やがて観念した。
「これは仲の良い精肉店のポスターとして描いたんだ。個展を開くにあたって、作品が足りなかったから置いといたんだけど…。まさかこんなに深読みしてくれるとは…」
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