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最後の旅
ICカードに二万円をチャージして、僕はホームにやって来た電車に飛び乗った。この電車が各駅停車なのか、いったいどこが終点なのか分からない。ただ、遠くに行きたい。その気持ちだけで僕の旅は始まったのだ。
車内は空いていた。時刻は午前九時半。通勤や通学のラッシュが終わったからだろうと思う。ドアに近い四人掛けのシートには、リュックサックを膝に乗せたおばさんたちが大きな声で各自の旦那の悪口を笑いながら話していて、その声とガタゴトという線路が唸る音だけが空間を支配していた。
僕は二人掛けのシートの窓際に腰掛けて、ぼんやりと窓の外から流れる景色を眺めていた。学生時代に通っていた学校も、就職した会社もすべて地元だから電車に乗るという習慣が僕には無い。買い物でショッピングモールに行く際はバスを使うし、近所のスーパーなら徒歩だ。なので、二十四年の人生の中で、電車に乗ったのは両手で数えられるくらいだ。今日で多分、九回目くらい。だから改札にカードをタッチした時、ものすごく緊張した。今もまだちょっと、どきどきしている。
「それでねー、味付けが薄いって文句言うもんだから、お醤油めちゃくちゃ入れてやったの! 今日のお弁当!」
「あははは! 作るだけ有難いわよね!」
僕が電車に乗ってもう三駅が過ぎた。おばさんたちの会話は絶えず、丸聞こえなのに恥ずかしくないのかなと思った。
「……」
僕は小さくて黒いショルダーバッグからスマートフォンを取り出して電源を切った。しばらくその黒い画面を眺めてから、バッグの中に仕舞う。バッグの中にはスマートフォンと財布、それからむき出しのICカードだけが入っている。パスケースを持っていなかったから変わりの物を探したけれど、似たようなのは名刺入れしかなかったから諦めた。まあ、どうせ帰りはどうなるか分からないから良いんだ。片道だけの旅のために、パスケースを買うのも勿体ないし。
僕はバッグの上に腕を組んで置いて目を閉じた。ここ最近、まったく眠れなかったのに、電車の一定のリズムの振動が、どうしてだか僕の瞼を重くした。おばさんたちの笑い声がざわざわと聞こえる。けれど、だんだんそれは遠くなって、やがて気にならなくなった。次に目を開いた時、停まった駅で降りよう。そう決意しながら、僕は意識を手放した。
***
「お客さん、終点ですよ」
「……あ、はい」
ぼんやりとする頭で僕は立ち上がり、よろよろと開いていたドアから外に出た。車掌さんか何なのか知らないけど、僕を起こしてくれた制服姿の人は、僕がホームに出たのを無表情のまま確認してから別の車両に消えていった。
「……どこだろう」
知らない名前の駅だった。僕以外に降りた人は見当たらない。向かい側のホームを見たけれど、電車を待っている人は誰も居なかった。
生ぬるい風が吹いて、停まっていた電車が車庫に向かって走り出す。その姿が見えなくなるまで眺めてから、僕は駅を出るために歩き出した。改札は向かい側にあると表示がある。エスカレーターもエレベーターも無い駅だったので、仕方なく段の多い階段を上った。小学校の時に上った歩道橋を思い出す造りだった。
「……ふう」
攣りそうな足を懸命に動かして階段を下りたすぐ傍に改札はあった。僕はまた少し緊張しながらそれを抜ける。液晶画面にカードの残高が表示されたけれど、減ったのは約二千円だけだった。距離にしたらそんなに遠くに来ていないのかもしれない。ここがどこなのか分からない以上、まったく見当もつかないけれど。
駅から出て道路を挟んだところに、ビジネスホテルがあった。今夜の寝床には困らないな、と安心した瞬間、ぐうと腹が鳴った。バッグからスマートフォンを取り出して電源をつけて時刻を確認するとお昼前だ。ああ、やっぱりそんない遠くには行けなかったな、とちょっと残念に思いながらきょろきょろと周りを見回す。すると、横断歩道を越えたところの銀行の隣に喫茶店らしき建物があるのを見つけた。僕は車が来ないことを確認してからそちらに向かって歩き出す。温かいコーヒーが飲めたら幸せだな。そんな気持ちでたどり着いた喫茶店のレトロなドアを引いた。
「いらっしゃいませ」
からん、とベルが鳴ったのと同時にカウンターから声がした。三十代から四十代くらいに見える男性が、目を細めて微笑んでいる。いわゆるイケメンだ。きっとここのマスターだろう。白いシャツの上から黒いエプロンをしていて、とても清潔感があった。
「お好きなお席にどうぞ」
「えっと……」
店内に客は誰も居ない。テーブル席が十席ほどと、カウンターには椅子が五脚。遠くの席に座るのもなんだかなあ……と思い、僕はカウンターの左端の席に着いた。少し小さくなって店内を見回す。落ち着いた雰囲気で統一されている内装は、テレビでしか見たことが無いけどログハウスみたいな感じだった。木が与えてくれる独特のぬくもりがとても落ち着く。それから天井のどこかにあるだろうスピーカーから聞こえてくる、クラシックだかジャズだかは分からないけれど優しい音楽も素敵だ。ヒーリング効果がありそうで、ずっとこの空間に留まりたいと思わせる魅力を生み出している。
「こちら、メニューになります」
マスターが水の入ったコップとお手拭き、それからメニューをそっと僕の目の前に置いた。僕は礼を言ってからメニューを開く。すると最初のページに「モーニングセット、終日販売」と書かれていたので驚いた。ドリンクとセットで六百円。安くてお得だ。ただ写真は載っていないから、どんなものが出てくるのかは分からない。僕はマスターに尋ねようと思い顔を上げた。
「あの、モーニングセットってどんなやつですか?」
「チーズを乗せたトースト。それから日によるんですけれど、ゆで卵かスクランブルエッグ、それかウインナーが付きます」
「お昼でも注文しても大丈夫なんですか?」
「ふふ。大丈夫ですよ」
「じゃあ……それで。ドリンクはホットのコーヒーお願いします」
「お砂糖とミルクはどうされますか?」
「ブラックで」
「かしこまりました」
マスターはメニューを下げて、さっそく調理に取り掛かる。細長い食パンをギザギザした包丁でちょっと厚めに切っている。カウンターからマスターの動きは丸見えだ。けれど、じろじろ見るのも失礼な気がしたので、僕は目を伏せて意味も無くコップの水滴を見つめた。
「今日は観光ですか?」
「えっ?」
マスターの声に僕は顔を上げた。彼は僕に背を向ける形でコンロでフライパンを握っている。すらりとした背中はぴんと伸びていて、格好良い人は後ろ姿も完璧だなと思った。
「観光? この辺、何か有名なものがあるんですか?」
「ええ。紅葉がとても綺麗な神社があるんですよ。ああ、でも紅葉にはまだちょっと早いな……」
「そうなんですね。知らなかったです」
「観光じゃないならお仕事ですか?」
「いえ……」
僕は言葉に困った。行先も決めずに降りた駅がここだったなんて言ったところで理解なんてしてもらえないだろう。なんと言って誤魔化そうかと悩んでいると、マスターの方が先に口を開いた。
「最近は朝、起きるのが辛いですね。ベッドからなかなか抜け出せなくって」
「そうですね。急に寒くなって」
「独り暮らしなんで目覚まし時計を無意識に止めた日には大慌てしますよ」
「あはは……え? 独り暮らし? 結婚されてないんですか?」
「お恥ずかしながら、婚期を逃しまして」
チン、とトースターが鳴った。マスターは手際良くトーストを皿に乗せる。それからフライパンで炒めていたものも盛り付けて、完成したモーニングとコーヒーカップをカウンターに置いた。
「モーニングセットです」
「うわ……!」
トーストの上のチーズが絶妙な加減でとろけている。その傍らにはレタスとミニトマト、そしてスクランブルエッグと焦げ目のついたウインナーが二本並んでいた。
「あれ? おかずが多い……」
「サービスです」
そう言ってマスターは目を細めて笑いながら、フォークと割り箸が入ったグレーのプラスチックの容器をカウンターにそっと置いた。僕はまた礼を言う。それからカップを手に取り、コーヒーで喉を潤すためにそれに口をつけた。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
独特な苦みが口の中に広がる。それは嫌な苦みとは違い、すっと心を落ち着かせてくれる穏やかな味だった。ブラックにして正解だったと思う。砂糖やミルクを入れてしまうと、きっとこの感覚は味わえないだろう。
次にトーストを齧る。これもまた美味だ。甘すぎずしょっぱすぎないチーズが絶妙で、こんなパンが毎朝食べられたら幸せだと思った。
気が付けば、僕は食べることに没頭していた。空っぽだった心を埋めるように、マスターが作ってくれた温かくて優しい料理を黙々と消化していく。
どれくらいの時間が流れただろう。皿の上にはひとくち分のスクランブルエッグ。それをフォークで掬って平らげた時、ぼんやりと目の前が滲んでいるのに気が付いた。
「あ……」
「お、お客さん!?」
ぽろぽろと涙が溢れ出て止まらない。胃が満たされた反動だろうか。今までずっと我慢していた感情が零れてしまう。駄目だな、こんなんじゃ。だって、僕は。僕の旅は。
「こ、これ使って下さい! 綺麗ですから!」
マスターが慌てた様子で、エプロンのポケットから取り出したハンカチを手渡してくれた。僕は迷いながらそれを受け取って、伸ばしてから両目に当てる。僕は涙の止め方を忘れてしまった人形のように泣き続けた。
「あの、お客さん……何かあったんですか?」
「……」
「こんなところに観光でも仕事でも無いのに来られるなんて不思議だと思っていたのですが……何か事情がお有りなんですね?」
「……旅です」
「旅?」
「最後の、旅……」
僕は数日前に降りかかった不幸な出来事を、マスターに話すことにした。
「実は……務めていた会社が倒産しちゃって」
「と、倒産!?」
「上の人間は逃げちゃって、訴えたくても訴えられないって言うか……裁判したくても良く分からないし、泣き寝入りかな、新しいところ探さなきゃって思っていた矢先、恋人に貯金を持って逃げられちゃって……アパートの家賃も払えないし、このままじゃ住所も無くなっちゃうから……」
「ご実家に帰られては?」
「もう両親はこの世に居なくて……親戚を頼るにも、子供の頃から厄介者扱いされてたから助けてなんて言えなくて。だから、もう……人生に絶望しちゃって」
「最後の旅と言うのは……」
「どこか、遠くに行こうって決めて電車に乗りました。自分でもどうしたかったのか上手く説明出来ないんですけど、とにかくこれが最後の旅なんです。最後だから、双六みたいに偶然決まった土地に行こうって。きっと思い出になると思って」
「……」
マスターは何も言わない。その代わりに、無言のままで手を伸ばし、僕の左肩をがっしりと掴んだ。大きなその手のひらはとても、とても熱い。僕はマスターの目を見る。彼もまた僕を見ていた。焦げ茶色の瞳の中に、戸惑った顔の僕が映り込んでいる。
「えっと……?」
「紅葉を、見に行きませんか?」
「は、はい?」
「もうすぐなんです。綺麗ですから、一緒に見に行きましょう」
紅葉? さっき言っていた神社のことかなって思った。
マスターは少し掠れた声で続ける。
「それから、私のことを毎朝起こしてはいただけませんか?」
「え? お、起こす?」
「まだ住む場所を決めていないのなら、私のところに来れば良い。一緒に暮らせば良い」
僕を見つめる表情は真剣で、マスターの言葉は彼の本心なのだと伝わった。急な展開に僕の頭は追い付かず、ただ黙って息を呑むことしか出来なかった。どうして、初対面の僕にこの人がこんな言葉をかけてくれるのか分からない。僕のことを哀れに思ったから? それとも彼の心が海みたいに広いから?
僕は何も言えない。すると、マスターは少しだけ表情を緩めた。
「まだお若いのに最後の旅にするなんて勿体ないですよ。この世には綺麗なもの、素敵なものがまだまだ沢山あるのに」
「……」
「人生は地図の無い旅みたいなものですよね。お客さん、貴方の旅は、まだまだ始まったばかりです。ただ、その旅はひとりでは心細いものですよね。だから……宜しければ私もその旅にご一緒させていただけませんか? 少しですが賑やかになって、きっと楽しいですよ」
「……っ」
僕は言葉が喉につっかえて声が出なかった。だから頷いた。何回も、マスターに伝わるように必死で頷いた。
マスターの手が、僕の肩から頭に移動して僕の髪を優しく撫でた。また涙が溢れて止まらない。僕はハンカチを目に押し当てて俯いた。頭上でマスターの「良かった……」という小さな声が聞こえた。何が良かったんですか? そう思ったけれど、僕にそれを訊く余裕は無かった。マスターの手が優しくて、紡がれた言葉が嬉しくて、僕はカウンターで眠ってしまうまでさめざめと泣き続けてしまったのだった。
***
「マスター! もう八時半ですよ!」
「ん……まだそんな時間……」
「早く行かないと駐車場がいっぱいになっちゃいます!」
「あー、うん……」
マスターと出会って三回目の秋が来た。平日だろうが休日だろうが、僕がマスターを起こすことはすっかり日課になっている。のろのろとベッドから出た彼を寝室から引っ張り出して、朝食を用意したテーブルに着かせた。マスターに比べたら料理のレベルは全然違うけど、美味しいって言ってくれるから良いんだ、これで。
「もう食べたの?」
「はい。マスターも早く食べちゃって下さい。そしたら着替えて紅葉ですよ!」
「了解」
マンションから紅葉スポットの神社まで車で十五分くらいだ。僕たちは毎年そこでデートする。もちろん、神社だけでは無い。春は電車に乗って有名なお城のある所まで桜を見に行くし、梅雨が明ければ海の近くの旅館に泊まりに行く。冬は……あんまり行かないけど。この辺は雪が積もるから、一緒に雪掻きするのがデートになるのかなあ……。
マスターと恋人になったのは昨年の秋。マスターからすれば、僕に一緒に暮らそうって言ったあの時、すでにプロポーズ級の覚悟があったらしい。「消えてしまいそうな君を、どうすれば繋ぎ止められるか必死だった」って聞かされた時は、ちょっと恥ずかしかったのと同時に、心配をかけてしまったことに対してとても申し訳ない気持ちでいっぱいになった。僕のことを離さないでいてくれた彼にはいくら礼を言っても足りない。
マスターと出会ってからの僕の人生は好調だ。新しい仕事も見つかったし、恋人と過ごす毎日はとても楽しい。知らない土地だったから慣れるのに少しだけ時間がかかったけど、僕はここを故郷にするって決めている。
「そうだ。ちょっと先の話になるんだけれど」
もう僕は「お客さん」じゃないから、マスターは僕に敬語を使わない。それから自分のことを「俺」って言う。そのことがまだちょっとだけくすぐったかったりする。
「何ですか?」
「もうちょっと寒くなったら、蟹を食べに行こうか?」
「蟹? 僕、カニカマしか食べたことないや……」
「ふふ。じゃあ、俺が殻を剥いてあげるよ」
「蟹味噌って美味しいんですか?」
「好みによるかな」
マスターは手を伸ばして、向かい側に座る僕の頬に触れた。見つめ合って、笑い合う。
「冬の旅は決まりだね」
「はい」
「来年も、その先も旅をしよう。もちろん、一緒にね」
「はい……ずっと」
最後の旅は、僕にとっての始まりの旅になった。ずっとずっと、僕はこの人と旅をする。生きていくんだ、大好きな人と一緒に。
僕はマスターの袖を小さく引いてキスをねだった。優しく応えてくれるくちびるが温かい。嬉しさで零れそうになる涙を堪えながら、僕はこれからも共に歩む長い旅に思いを馳せた。
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