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珠紀さんは今日も朝礼が終わるとすぐにバッグを持った。 「もう行くんですか?Kビルですか?」 「ううん、クリスタルホール」 「えっ?正月のですか?先にKビルの点灯式でしょ?」 「できるときにできることで動く!一人で行くからいいよ」 「行きますよ」 突き放されたような言われ方にちょとムッとしながら、鞄を持ってあとを追いかける。 クリスタルホールでは、1月2日に歌舞伎の若手会が中心になって、歌舞伎、狂言と文楽の合同イベントが行われる。 「とにかく若い人たちに、もっと古典芸能を知ってほしいんですよ。もちろん今回の集客にも御助力いただきたいですが、当日もたくさんのメディアに来てもらいたいんです。次に繋げるために」 若手歌舞伎役者のリーダーと言われている彼は、にこやかに笑いながらよく通る声で言った。 珠紀さんもにこにこと笑いながら、 「ありがとうございます。最善をつくします」 と。 今回の来訪目的でもある『訳本』の校正をしながら、 「こういうのあると確かにとっつきやすいでしょうね」 と言った彼に、珠紀さんは微笑えんで応える。 「最近の若い女性は普段は着物を着ないけれど、お正月は着たくなるらしいです。着物で初詣デートのあと、初心者向け古典芸能鑑賞って素敵ですよね」 「あなたも着物デートで来てくださいね」 その言葉に珠紀さんは微笑んだまま首を振った。 「私はお仕事です」 「正月もですか?」 「はい。メディアの方々をこちらに御案内します。恐れ入りますが終了後のインタビューをお願いしますね」 「ああ、そうでした!こりゃ失礼」 彼はよく通る声で笑った。 とても珍しいことに、その日は20時すぎに珠紀さんは用があるから帰ると事務所を飛び出して行った。 取り残された気分でデスクでぼんやりしていた僕の肩に、ポンと手を置いたのは平部長。 「健、飯行こう」 平部長の行きつけの小料理屋は高級感が漂っている。部長は 「なんでも食え、もちろん奢りだ」 と手書きのメニューを渡してくれた。 値段が書いていないメニューの中から、一度食ってみたいと思っていたノドグロの煮付けを選ぶ。 部長は自分もいくつか注文をしてから、 「すまんな珠紀のアシスタント」 と頭を下げた。 「いっ、いえ」 部長とサシで飲むなんて緊張するなという方がむりだ。平部長は気さくな方だけど。 わずか30分ほどの間に、久しぶりに飲むハイボールで酔いが回ったのか軽口になってしまっている。 「あの人はおかしいですよ。それにどうしてリテナー6本も持ってるのに、スポット入れるんですか?」 部長に対して、そんな口をきいてしまった。 「まあ今シーズン堪えてくれ。来年度は別の人間をつける」 それは・・・ 「そういう問題じゃなくて、今のままだと珠紀さんが倒れます」 平部長は腕を組んだまま 「うん」 と下を向いた。 「元々リテナー6本も抱えることになったのは、スポットをしたくないという本人の希望からだ」 顔を上げた平部長はまっすぐに僕を見る。自分で徳利を持って猪口に注ぎ、くいっと飲み干した。 「おまえにだけ話す。あいつのアシスタントでこんなに長く音を上げなかったのは、おまえが初めてだからな」 そう言って、また、くいっと飲んでから 「オフレコ中のオフレコで頼む」 部長はまた頭を下げた。
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