第一章

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梅雨のような長雨が続いていた。残暑を感じさせない冷たい温度に、匡臣は傘を持つ手を思わず擦る。 アスファルトの水溜りに滲んだ光を踏みつけて歩きながら、世の中、つまらないことが多いなと口の中で呟いた。 子供の頃、世界は今より多少キラキラしているように見えていた。日々なんらかの発見があり、将来への希望や、やりたいことを胸に秘めていた。だけど年を取るにつれて発見は遠のき、心身ともに疲れが蓄積していった。 高校に入る頃には子供の頃に持っていた輝きは薄れていき、大学を経て社会人となり、新入社員じゃなくなる頃には心身ともに鈍色に染まった。疲労が全身に染みついてとれなくなってしまったのだ。  街角のビルの窓ガラスに映り込んだ自分を見て、匡臣は盛大な溜息を漏らす。 ガラスに映っている、このどんよりとした冴えない男はいったい誰だ。思わずそう問い掛けたくなる。 金曜日、五日の連勤を乗り越えた男の顔は生気がなく青白い。もとより肌の色が白いせいも相俟って、まるで蝋のようだ。置物が突っ立っているみたいで気味が悪い。  自分の顔を見て不気味だと思うなんて、いよいよ末期症状だな。 苦笑を漏らすと、また足早に歩き出した。 チクタクと急かすような音を刻み続ける腕時計は九時半を示していた。約束の十時が迫っている。 この時間ならば余裕だと踏んで設定した時間なのに、急なサービス残業ですっかり時間ギリギリになってしまった。 家に帰って普段着に着替える暇もない。 地下鉄の乗り口の階段を駆け下り、自分の家とは違う方向の電車に乗り込む。 車内は帰宅ラッシュの時間を超えてもなお、そこそこ込んでいた。塾帰りの学生、仕事帰りのサラリーマンがたくさん乗っている。誰も彼もがくたびれているようだ。 匡臣は周囲に老人や体の不自由な人がいないことをさっと確認して、ぽつんと空いていたシルバーシートに腰を降ろした。 目を閉じたら、そのまま眠ってしまいそうだ。電車の揺れに身を任せながら、瞼を落さないようにする。 十五分ほどして電車を降りた。 人の波を避けながら早足にホームを歩き、改札を抜ける。賑やかな繁華街の方の表口に出ると、待ち合わせをしている相手を探す。 匡臣がその姿を見つけるよりも先に、相手がこちらに気付いてハイヒールを踏み鳴らしながら近付いてきた。 「遅いわよ、匡臣!」  肩より長い巻き髪を揺らし、飯倉結奈が口を尖らせる。時計を見ると、約束の十時を十分過ぎていた。  匡臣は上から下までちらりと結奈の姿をチェックする。 白いフィッシュテールスカートに紺色のリボン付きのブラウス。化粧をばっちりと施した完璧な姿だ。隙のない格好に、多少息苦しさを覚える。 「悪いな、残業が長引いちまった」  結奈の言動も行動も怒っているポーズだけだ。それがわかっていたので、匡臣は軽い調子で謝る。 「許してあげる。お仕事じゃしょうがないよね」 結奈が腕を絡めながら、甘えたような上目遣いで見上げてくる。 結奈の上目遣いの効果は薄い。彼女はハイヒール込みで百七十近く身長があり、対する匡臣は百七十二センチとそんなに背が高くないからだ。わかっているはずなのに彼女がそうするのは、可愛らしいもしくは魅力的な女のマニュアルに則っているからだろう。 「じゃあ残業代で奢ってもらっちゃおうかな」 「奢るのはかまわないが、残念ながらサービス残業だ」 「またなの?匡臣の会社、あいかわらずブラックだよね」 「どこもそんなもんさ。この景気じゃしょうがねぇよ」  結奈に腕を捕えられたまま、匡臣はゆったりとした歩調で歩き出す。幸い雨はやんでいる。傘は必要なさそうだ。 雑多な繁華街は、溢れる光と音で目まぐるしい。それが少し苦手だった。しかし結奈が予約した店がこの辺りなので、致し方ない。忙しくて会う店も選べなかったのだ。文句を言う権利はないだろう。 十分ほど歩いた場所で結奈は足を止めた。 居酒屋や立ち食い蕎麦、中華料理店が並ぶなかで異彩を放つ、レンガの壁の建物。 看板を見ると、『Bistro coral』と書かれていた。いかにも女子が好きそうな店だ。 「どう?なかなか素敵なお店でしょ」  少し得意げな顔でこちらを見た結奈に、匡臣は薄らと笑んだ。 これはまたずいぶんとお洒落な店をチョイスしたな、肩が凝りそうだ。 本音はそうだったが、店を探して予約してくれた結奈を立てるために黙っていた。 「ああ。予約、ありがとな」 「どういたしまして」  満足そうに笑った結奈に、ちゃんと正解を選んだのだと認識する。 人間関係を円滑にするためにはあらゆる場面場面で、正しい答えや言葉を選ぶことが必要だ。 子供の道徳では『人間、素直でいましょう』だなどと教えるが、そんなものは嘘っぱちだ。 一歩社会に出れば、素直よりも協調性や空気を読むことが美徳となり、思ったことをそのまま口に出す者はたちまち悪人扱いされる。 自分の意見よりも、相手を喜ばせる意見が尊重されるのだ。  ぼんやりとそんなことを考えながら、結奈のために扉を開ける。当然のようにドアを先にくぐった結奈について、匡臣も店内に入った。
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