第一章

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 ドレスシャツに黒いベストの店員が、丁寧に頭を下げて匡臣と結奈を迎える。 「いらっしゃいませ」 「予約した飯倉です」 「飯倉様ですね。お待ちしておりました、どうぞこちらへ」  二人が通されたのは壁際の二人掛け席だった。 黒いシックな壁を彩るようにアクアリウムが嵌め込まれている。 匡臣は壁側のソファ席に腰を下ろす。結奈はアクアリウムがよく見える向かいの椅子に座った。 隣の席との間隔が近いのが少し気になるが、二人席にしてはわりと広めのテーブルなので、窮屈さは感じない。 「かんぱーい、お疲れさま」  ビールとサングリアで乾杯する。控えめに合わせたグラスが澄んだ音を立てた。  匡臣はお通しのキャロットラペを食べながら、ビールをぐいと煽った。肌寒い日にビールはどうなのだろうかと思っていたが、店内は賑わっていて熱気があったので、意外と悪くない。 「ねえ匡臣、最近どう?なにかいいことあった?」  近頃、会うたびに結奈はそう尋ねる。 「べつに、変わらないさ。日常なんて、そうそう変わるもんじゃねぇよ。それとも、お前は何かいいことでもあったのか?」 「あるわけないでしょ。ほんと、事務職なんて退屈なだけ。責任だけは押し付けられるわりには、感謝されないし。できて当然、やって当然ってスタンスだもん」  長い髪を掻き揚げながら、結奈が重々しく息を吐く。 つまらなさそうな顔で大きな溜息を吐く彼女をみるたびに、吐き出した息が鉛となって、彼女の周囲にとどまっているような気がしてくる。  今年で二十六歳。仕事に慣れてきてつまらなさが襲ってくる時期なのだろうか。結奈の気持ちはわからなくもない。匡臣自身も、仕事に対してのバイタリティを失っていた。 昇給はほんのわずかで、成果が反映されない。仕事の負担だけが年々増えていく。 結奈の会社も似たようなもので、経済の不透明さから昇給は一切なく、ボーナスも雀の涙だそうだ。 彼女の給与明細を見せてもらったが(頼んだわけではなく、結奈が自分から見せてくれたのだ)、とてもひとり暮らしができるような額ではなかった。 かくいう匡臣も贅沢な暮らしをしているわけではないのに、生活はギリギリだ。平日はサービス残業の嵐で無理だけれど、土日には実入りのいい家庭教師や塾講師のバイトをしている。 卒業した大学は、名前を聞けば「頭がいいね」と言われる偏差値の高い大学だ。 だけど、そんなことは就職の前では何の役にも立たなかった。卒 業したのが文系の教育学部だというのも原因の一つだろう。理系だったら、もう少し道は変わっていたのかもしれない。 色々失敗したな。今頃になって、匡臣は自分の歩んできた道を呪わしく思った。 「残業がないのと、有給が取得しやすいことだけがうちの利点だわ。お給料はバイトしてたほうがマシなレベルだし。私、これから先どうなっちゃうのかしら。四大を卒業して、中小企業に就職して親のすねを齧ってるなんて、大学時代には想像できなかったな。私の人生、もう詰んだって思っちゃう」 「しょうがねぇよ、今は不景気だ。よっぽどの大企業じゃなければ、ダブルワークや投資でもしないとやっていけない」 「あー、やだやだ。せっかく匡臣とデートだもん、こんな暗い話やめようよ。料理もお酒もジャンジャン注文して、パーっといかなきゃ」  殊更明るい声でそう言うと、結奈は「すみません」と店員を呼びつけた。 サーモンのカルパッチョ、シーザーサラダ、ボンゴレロッソ、ローストビーフを注文する。ビールを空にした匡臣は、すかさず二杯目にキールを注文した。 「私は待ち合わせが遅い時間だったから家で軽く食べてきたけど、匡臣はごはんまだでしょ。たくさん食べてね」  結奈が笑顔でサラダとパスタを取り分けてくれる。 別に適当につつきあって食べたらいいと思うのだが、結奈は大皿で料理を頼むといつも進んで取り分けてくれる。 大学時代の合コンやコンパの時もそうだった。 気を配って料理を取り分けられる女子は、女子力が高いと男子受けがいいそうだ。女は大変だなと、しみじみ思う。  酒を飲み、料理を食べてとりとめのないことをダラダラと喋る。 他愛もない時間だ。楽しそうに笑っている結奈を見て、匡臣は胸が痛むのを感じていた。  匡臣は切れ長の瞳をそっと伏せる。  青く輝く背後の水槽で、熱帯魚がパクパクと忙しなく口を動かしている気配を感じる。やつらは何を欲しているのだろうか。 もっと大きな海、人工物じゃない自然の餌、自由を欲しているのだろうか。人間たちが楽しそうに笑いながら食事をするのを見て、何を感じるのだろうか。 そんなどうでもいいことに意識を飛ばす。 「どうしたの、匡臣、疲れてる?それとも退屈なの?」  気がないことに気付かれたようだ。結奈が少し不安げに整った眉を寄せる。 彼女に不安を与えないよう、匡臣はいつものクールな澄ました声をわざと弾ませる。 「金曜日だ、少しぐらいは疲れてるさ。けど、退屈じゃねぇよ」 「じゃあ、何を考えてたの?」  結奈の顔はまだ不安を映している。 匡臣は涼しげで端正と称される顔を少し崩して、おどけたように笑った。 「俺の背後にいる魚のことさ。カルパッチョなんざ食いやがって、目の前で仲間を食うなとでも思われてそうだな、とかな」  匡臣の言葉に、結奈が顔を綻ばせる。 「やだ、匡臣ったらユニークよね。面白いこと言わないでよ、吹き出しちゃうじゃない」 「悪かった、冗談だ」 「いいの。匡臣のクールでキレ者だけど面白いところ、私はすごく好きだから」  戸惑うことなく好き、と言えるのは恋人同士だからだろうか。自分にはできない。気持ちを正直に吐き出すのは、不毛で不安なことだ。 それとも、彼女の前で本当の気持ちをすべて吐露してみせようか。そうしたら、彼女はどんな反応を示すだろう。  破滅衝動が押し寄せる。 口が勝手に動き出す前に、ローストビーフにフォークを突きさし、口内へ運ぶ。 じわりと肉汁のうまみと甘辛いグレービーソースの味が口の中に広がる。同時に、わずかな血の味も鼻を抜けていった。 「うまいな、ここのローストビーフ。ステーキみたいに脂がのってる」 「そうでしょ。ここのローストビーフはももの部分じゃなくてね、サーロインを使っているんだって。雑誌で評判になってたから、匡臣と一度来てみたかったの」  はしゃぐ彼女にほんの少し、違和感を覚える。なにかを期待されている、そんな気がしてならない。 その内容を匡臣は言い当てることができる。 たぶん、九十九パーセントの確率で正解だろう。 わかっていたけど、気付かないふりをして何も言わなかった。
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