第一章

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 一時間半ほどかけて食事を済ませると、匡臣と結奈は店を出た。  匡臣はさりげなく腕時計を見る。まだ終電がある時間であることに密かにほっとした。当然のように最寄りの地下鉄に向かって歩き出す。 結奈が戸惑うような顔をしていたのを知りながらも、素知らぬ顔を貫く。  遅れてついてきた結奈が、スーツの袖をひいた。 「ねえ、帰るの?どこかに寄っていかない」  そう言って彼女が視線を流したのは、派手なピンクのネオンが光る建物だった。  結奈の耳朶が赤く染まっている。羞恥心を堪えて、直接的なお誘いをしてくれたのだろう。 いつものできる女という雰囲気を覆す、健気な姿に胸が疼く。しかし、そんな気分になれない。 「いや、やめておく」 「じゃあ、匡臣の家に行ってもいい?明日はお休みだし」 「悪い、気分じゃない。また今度な」  言い訳を並べるつもりはない。向こうが直球だったので、こちらも直球で返した。嘘を並べて断るより、少なくとも誠実だろう。 結奈は少し傷付いたような顔をしたが、わかったと頷いた。  泥酔した客や爆睡している客が多い電車に乗り込む。電車自体はそれほど込んでいない。二人並んで席に座る。 「あのね、匡臣。結婚とか、考えてるの?」  いつもよりワントーン低い声だった。彼女の気持ちの表れだ。 悲しませるだろう、いや、もうすでに悲しんでいる。しかし、どうする術もない。 妙な期待は持たせたくないし、こういうのは正直に答えるべき問いだろう。 狡い男ならば、ずるずるとぬるま湯の都合のいい関係を保つために前向きな答えを口にするのかもしれないが、そうなりたくはない。 「今のところは考えていない」  はっきりした声でそう答えると、彼女は一瞬だけ落胆した色を滲ませたものの、すぐにいつもの明るい笑顔を浮かべる。 「だよね。まだ二十六だもの。もうちょっと仕事が安定してからがいいよね」  今の会社で、いや、今の会社だけの問題じゃない。この不景気な世の中で、仕事が安定することなどあるのだろうか。 そう聞き返したかったが、大人げないと思って「そうだな」とだけ答えた。  窓の外にはのっぺりとした闇が見える。地下鉄の景色はまるで自分の将来のようだ。自虐的な考えに苦笑する。 「それじゃあな」 「うん。おやすみ匡臣」  結奈と別れて、匡臣は自宅のアパートに向かう。 駅から徒歩十五分、歩いている間に酔いがさめるだろうと思っていたが、かえって過剰摂取したアルコールが回ってきたようだ。 足をもつれさせながら、いつもより時間をかけてやっとアパートに着く。 エレベータに乗って、部屋のある四階で降りたところまではよかった。しかし、その足で自分の部屋ではなく、隣の部屋の扉を叩いてしまった。 「おかえり、匡臣」  いらっしゃい、じゃなくて、おかえり。 隣人の幼なじみは、大学に通うために二人そろって上京して隣人になってから、部屋を訪れるたびにいつもそう言う。 いやじゃない、むしろほっとする。 「ただいま、透」  ノリよくそう返事しながら、彼の家にあがりこむ。和野透(わのとおる)が柔和な笑みを浮かべた。  徹は小学校一年生からずっと一緒にいる究極の幼なじみで、薄茶色の柔らかな天然パーマの頭、下がった目尻、高い身長をした穏やかな青年だ。 ストレートの黒髪に切れ長の吊り目、低い身長の自分とは何から何まで正反対だけれど、透とはウマがあった。 学校でクラスが違ってしまっても、ほとんどの時間を彼と過ごした。彼以上に分かり合える人間はこの先現れないだろう。確信をもってそう言える。  自分の家のようにどかりとソファに腰を下ろすと、透が冷たい水を手渡してくれた。乾いた喉を潤す。ほんのりとレモンの香りがした。 「ありがとな」 「いいよ。スッキリした?」 「ああ、スッキリした。お前、日付も変わっておるのにまだ起きていたのか?」 「うん。ちょっと、この絵を仕上げたくてね」  透の指さす先には、大きなキャンバスが置いてあった。美しい滝と森に思わず目を奪われる。 滔々と流れ落ちる滝の傍には、大きな蝶が舞っていた。 「すげえな。マイナスイオンが出ていそうだ」 「そう言ってもらえると嬉しいよ。一か月後の展示会に出すんだけど、なかなか仕上がらなくて」 「俺から見れば、すでに完成して見えるけどな」 「僕にとってはまだなのさ。蝶のリアルさが足りない。それに水の匂いもしてこない。この滝はまるで死んだ滝のようだ」 「死んだ滝ね」  芸術家の言葉だな、と思う。 匡臣には絵の中の滝が死んでいるという言葉の意味があまりよくわからない。  言葉選びの感性だけじゃない。芸術家は目も一般人の目とは違うらしい。 陽の光で煌めく水も、白い泡もリアルそのもので、耳を澄ませば音まで聞こえてきそうだ。だけど、透にとってはまだ何か足りない。 何がどう欠けているのか、自分にはまったく理解ができない。 「悪いな、邪魔になりそうだし、すぐ帰る」 「そんなことないよ。今日はもう終わりにしようと思っていたんだ。匡臣、明日は会社休みだよね。ここで飲みなおさないかい?」 「いいのか?」 「勿論さ。先生にとびきりのワインを頂いたんだ。チーズもね。ちょっと座って待っていてくれるかな?」 「ああ」  透は穏やかに笑むと、台所に消えていった。ソファに残された匡臣は、部屋を見回す。  床にはパレットや油絵の具が放りだしてある。水差しには何本もの筆が突き刺さっていた。 かなり熱中して絵を描いていたようだ。先週遊びに来た時に片付けた部屋が、もう乱雑に散らかっている。 洗濯もろくにしていなかったのか、ベランダの前にはしわくちゃの服が入った洗濯籠と、取り込んで畳まれずに放置されたシャツやタオルが落ちていた。 「やれやれ、相変わらず片付けのできない男だな」  重たい腰を上げると、ボランティア活動を開始する。 勝手にアイロンを取り出してシャツにアイロンをかけなおし、しわくちゃの服をハンガーに通して手早く室内に干した。 それから置いてあったモップで床を簡単に掃除する。 「ごめん、片付けてもらっちゃって。助かるよ」  ワイングラスやおつまみをお盆にのせて戻ってきた透が、申し訳なさそうに後頭部を掻く。 「そんなことかまわねぇよ。今から飲ませてもらうワインの代金がわりだ」 「匡臣は片付け上手だね。仕事も早い」 「誉めても何にもでないぜ」  モップをもとの位置に戻し、定位置の三人掛けのソファの真ん中に腰かける。透が隣にゆったりと座った。  透明なワイングラスの中で、濃い赤の液体が揺れる。匂いを楽しむ透より先に、匡臣はグラスを傾けた。 僅かに渋みがある、とろりとした液体が喉を流れる。葡萄の味と匂いが広がった。 「馬鹿舌の俺でもわかる。いい酒だな」 「匡臣は馬鹿舌なんかじゃないよ。むしろ、君は舌が肥えている。コンビニ弁当とかカップ麺とか好きじゃないよね」 「あんまりな。味が濃くて美味しいと脳が錯覚しがちだが、よくよく味わえば科学的な味がするからな」 「ほら、馬鹿舌じゃない。安いものでも高いものでも美味しいものは美味しいし、不味いものは不味い。君の舌はすごく正直でセンシティブだよ。ほら、このチーズも食べてごらんよ。すごくワインとあうんだ」  勧められるまま、三角に切られたチーズを口に運ぶ。 子供の絵本によく登場する、穴の開いたエメンタールチーズだ。木の実のような香ばしさ、程よい塩気が美味い。 飲んでいる赤ワインとの相性が抜群だ。 「美味いな」 「そうだろう。値段もそうだけど、最高の品質のものさ。ぜひ君と、と思ってとっておいたんだ。早く食べたくて、じつはうずうずしてたんだよ」 「そうか。なら、ちょうどいいタイミングで来たわけだ」  チーズ、レーズンやナッツ類を摘まみながら、匡臣はグラスを傾けた。 くたびれて眠かったのがすっかりふっとび、夜通し喋っていられそうだ。 明日は塾講師のバイトはなく、あるのは家庭教師のバイト一件だけ。生徒の家に出向くのは夕方なので、早起きの必要はない。 「匡臣、今日はデートだったんだよね?何もせずに帰ったのかい?」  不意打ちのような透の質問に、ワインを吹き出しそうになる。 「お前がそういった手合いの質問とは珍しいな」 「そうかもしれないね。で、どうなんだい?」 「聞いてどうすんだよ、そんなこと。まあ、答えない理由もないがな。この時間で、へべれけだったんだ、想像はつくだろう。気分が乗らなかったから、食事して別れた」 「そうか。君は考えないか?将来についてあれこれ」 「考えなくはないさ。だけど、今のところ結婚する気はない」 「それは、飯倉さんとって意味かい?」 「いや、結奈限定じゃない」  そう、結婚する気はない。世間も両親も匡臣に結婚することが当然だという価値観を押し付けてくる。 まだまだ結婚して家庭を築くのが一般的な社会だ。それが幸せだという風潮すらある。そのことに対して、匡臣は批判的だった。 昔から、恋愛に没頭できなかった。ルックスの良さから女は寄ってくる。積極的に彼女を作る気はないが、告白されて気が向けば付き合ってきた。 とうぜん、付き合いの延長線上にあるセックスも体験済みだ。しかしそれ以降の発展がない。 相手を大切だと思うようになること、愛することができない。セックスも単なる性欲処理にすぎなかった。  結奈は同じ大学の同じ教育学科だった。彼女に告白され、付き合い始めたのが大学三年の夏でもう五年ほどになる。 だけど、彼女に特別な感情は沸かなかった。 どこかおかしいのかもしれない。人を愛おしいと思えない。人間嫌いの節が昔からあったが、ここまで男女の恋愛に興味を持てないのはもはや異常かもしれない。  そんな自分にとって、結婚は地獄の制度だ。なんの思い入れもない相手と一日中顔をつきあわせて過ごす。想像しただけで吐き気がする。 「そういう透はどうなんだ?彼女、今いないんだろ?作らねぇのか?」  焦点が当たっているのが嫌で切り返すと、透はいつもの穏やかな笑みを浮かべて答えた。 「作らない。忙しいんだ、女性にかまっている暇はない。それに匡臣も知っているだろう。僕は、恋愛に興味が持てないんだ」 「そうだったな」  透は同族だ。一緒にいて居心地がいいのは、互いに世間一般が興味を持つ話題に関心がない者同士のせいもあるだろう。 透は自分と違って、恋愛感情が持てないことをはっきり口にできるし、可笑しいことだとも思っていなくて堂々としている。 それは透に恋愛以上に大事なことが明確にあるからだろう。 透にとって人生でもっとも大事なのは、絵を描くことに違いない。 「透の恋人は昔から筆と絵の具だったな」 「その言い方だと変態くさいけど、否定はしないよ。おかげでこの年で定職につかずに、アルバイトしている。情けないね、親が泣いている」 「親が泣いているのはうちもの同じだぜ」 「そう?僕から見れば匡臣は立派だよ。ちゃんと就職して、おまけに将来のことをちゃんと考えてアルバイトまでしている」 「せざるを得ないんだよ。うちの会社は流行りのブラック、いや、まあグレーぐらいだが、とにかく給料が安いし残業代が出ない。退職金の制度はあるらしいが、ちゃんとあるかどうかも怪しいもんだ。噂じゃ五百万円以下らしい。ダブルワークを禁じてないあたり、はなから社員に一人で生きていけるだけの給料を払う気がないのがみえみえだ」 「ああ、そういう見方もできるね。相変わらず君は頭が切れる。君なら、何にもでもなれるよ。昔から、僕はそう思っていたんだ」  透の言葉に苦笑せざるを得なかった。  確かに、ある程度選択の余地がある人生を送れると思っていた。勉強は短い時間で効率よく学び、成績は常にトップクラスだった。 匡臣の母は、自分自身はなんの特色もない短大卒の事務職員だったくせに、強力な学力信仰者であり、子育てにおいていい大学を卒業させることこそがなによりも重要だと考えていた。 偏差値の高い四大卒で大手企業に勤める父も、子育てにはほとんど口を出さない男だったが、テストは百点以外認めないといった風潮があった。 しかも両親揃って、子供は自由にさせるよりも先人である親の言うことを聞かせた方がいい人生を歩めると思い込んでいる節があった。  そんな家庭で育ったせいか、高校を決める折も大学を決める折も、父と母の強い勧めに従ってきた。 敷かれたレールを歩かなければ、人生に失敗するような気がしていたのだ。 大学は東京にある某有名私立の教育学部に入った。教育に興味があったわけでも、子供が好きだったわけでもない。 母が不景気でも教職なら働き口があるから教員免許のとれる大学に行けと命じたからだ。 そのことは人生最大の失敗だった。 教職には微塵も向いていなかったからだ。 趣味も教育者らしい趣味を持て、休みの日でも教員であれ、働きだしたらボランティア精神を持って残業休日出勤に励め。 入学初日からそういった類の話を大学の教授から聞かされて絶望した。向いていないとすぐに悟った。 一年が過ぎて勉学内容が一般教養から教職の科目一色になった時、真剣に学部の移動を考えた。 しかし、父と母に学部移動するなら学費はこれ以上出さないと禁じられて断念した。 大学を卒業したら、好きな道を選べばいい。そう両親に言われたが、それは不可能だった。 教員過程の授業や教育実習に追われて自分のやりたいことを探す時間も、やりたいことをする暇もなく就活を迎えた。 就活では、文系の教育学部を卒業することが仇になったらしく、行く先々で「どうせ教員採用試験に落ちた保険でしょう」と言われ、大手企業をすべて落ちた。不景気も災いしていた。 数十社受けても一次選考を突破して個人面接まで進める会社は三、四社。そして最終選考を突破できるのはよくて一、二社だった。 バブルで引手数多だった親世代には、こんな就職難は理解できないだろう。二次選考にすら進めず落とされるのはなかなか堪えた。 まるで社会から用なしのクズ扱いされているようだった。 頑張って勉強した灰色の青春。 学業成績で良いところに雇ってもらえたら報われるが、そんな時代じゃない。 企業は学力よりも人としての中身を見る。勉強ができればなんでもいいという方針で育てられた自分に足りないものだった。 結局内定をもらえたのは、家族経営に近い小さな会社の営業職だ。ノルマとサービス残業に苦しむ毎日を送って三年以上が経ってしまった。 「俺はもう、何にもなれないさ。名もない社会の幽霊だ」 「幽霊か。僕からしてみれば、幽霊は僕なんだけどね。画家になりたいという欲求にとりつかれて、世間から置いて行かれた亡霊さ」 「上等じゃねぇか。お前の目は死んでない」 「そう、そうかもしれないね。生活は苦しいけど、僕はいまこの瞬間が楽しいし、愛おしい。たとえこのまま一生アルバイトと売れない絵を描くことで人生が終わっても、きっと成仏するだろうね」  堂々とそう言い切った透の瞳は輝きを持っていた。昔から変わらない瞳だ。 変人だとか暗い奴だと罵られ、クラスで後ろ指をさされようと透はスケッチブックを手放さなかった。好きなことをやり続けている。 彼みたいに生きたかった。強い人ぶっていても、心の底に臆病風を飼いならしていた自分には、進めなかった道。 透は険しい道のりに足を痛めても、しっかり自分の足でガラス塗れの地面に立って進んでいる。 「すごい奴だよ、お前は」 「そうかな。変わり者なだけだよ。僕からして見れば、君の方がずっと強いよ」 「そんなことねぇよ」  透の言葉を鼻で笑うと、匡臣は大きくグラスを傾けた。  窓の外に視線を流す。 星の代わりに、いつまでも眠らない都会の明かりが暗闇に輝いている。 東京じゃ星も拝めない。人やビルだらけの雑多なコンクリートジャングル。 ただ一つ気に入っているのは、ここは両親からの干渉を受けない場所だということだ。 実家には帰らないだろう。もう、二度と。  暗い話題で気分が塞いできた。何か楽しい話をしよう。匡臣がそう思って口を開こうとした時に、ちょうど透が口を開いた。 「ドガの絵を見たことはあるかい?」  透の唐突な質問は今に始まったことではない。普通の人はここで戸惑うが、付き合いの長い匡臣は平然としていた。 透は昔から興味がわいたことを片っ端から話し始める。それまでの話とは何の脈絡もないことも、場面にあっていないことも躊躇なく話すのだ。 そういうところが、空気が読めないとか変わり者だと揶揄される原因を作っているが、匡臣は欲望に素直でいいことだと思う。 「ドガっていうと、小学校の音楽室に置いてあったあのバレリーナの絵か?」 「ご名答。よく覚えているね、流石は匡臣。あの絵はエトワールという絵で、左下に大きく描かれたポーズをとるバレリーナは花形、画面奥にいるのはパトロンの男と脇役のバレリーナだ」 「そういう絵だったのか。知らなかったな」 「ドガの絵には動きがある。君が知っているあの絵のバレリーナだって、今にも動き出しそうじゃなかったかい?」 「そうだな、そのせいか不気味だと思っていた」 「確かに、ちょっと怖さがあるよね。美しいものには棘もあるものさ。昨日テレビで彼の絵について取り上げられていて見ていたんだけど、素敵だった。躍動感のある登場人物、なにか、物語を感じさせる光景。見ていて胸が高鳴ったよ」  珍しく興奮気味に語る透を、匡臣は暖かな目で見つめた。絵について語る透が好きだった。昔からずっと。  その好きはライクだと思っていた。だけど、思春期を越えたあたりで、そうではないと薄々気付き始めていた。 女と付き合っても、身体を重ねても心が満たされない。透と普通に喋ったり、ゲームをしたりしている時の方がよほど満たされた。 単に、愛に興味がないからであり、年を取ってその時期がくれば、自分は社会一般でいう正しい成人男性になるのだと思っていたが、高校を卒業し、大学生になって結奈と付き合ううちに違うとわかった。  女との恋愛に対する興味はいつまで経っても芽生えず、未だに皆無だ。結婚への憧れもない。 不仲で喧嘩が絶えず、家に寄りつかない父と、不満ばかり漏らして父を怒鳴る母を見て育ってきた。憧れなどあるはずもない。 性欲処理をするだけなら、そこらで女をひっかければいい。わざわざ付き合うとか結婚とかいう面倒な真似をする必要はない。 結奈とは惰性で付き合い続けているが、そろそろけじめをつけるべきだと感じている。友達から始めた彼女は、女らしさと付き合いやすいサバサバしたところを兼ね備えていていい恋人だった。 容姿も整っていてスタイルも抜群だ。 手放すのは惜しい気がするが、結婚する気もないのに留めておくのは気の毒だ。 それに、最近は忙しさで性欲も薄れているので、デートをするのもそのあと誘われるのも面倒だ。  女との恋愛に興味が持てない、ならば自分はゲイで男が好きなのか。その答えはノーだ。断言できる。 はっきり言って、男にムラムラしたこともときめいたこともない。 ただ、和野透だけが心を揺すぶる。男とか女とか性別を超えて、透が好きなのだ。 彼はきっと自分にとってソウルメイトなのだろう。  透への気持ちを持ち続けている限り、次の相手は見つからないままだろうし、恋愛にも興味を持てないままだ。 だからといって、透に気持ちを告げる気はない。 今の関係が崩れて、彼を失うのが怖いのだ。 仮に彼に気持ちを伝えてふられて、それでも今の関係を続けられるとしても、気持ちを告げる気はない。  マイノリティだと認めるのが怖い。自分は同性の透が好きだという以前に、恋愛感情を持てないマイノリティだ。 一生そうかもしれないなら、いっそしつこく結婚の時期を聞いてくる親にも、結婚を期待している結奈にもそう公表すればいいかもしれない。 だけど、それができない。 世間にそんなことを公表して後ろ指をさされるくらいなら、一生黙っていたい。そう思うのだ。 仲間外れにされるのは怖くない。そんな子供だった。 だけど、いつの間にか社会性や協調性を身に着け、社会に溶け込んで平穏に生きていこうとしている。 マイノリティはいつの時代も生きにくい。他人から疎外されることよりも、生きにくさを味わうのが嫌だった。 何より、周りから普通でさえもいられない哀れな奴だと見られることに耐えられない。 散々絵について語った挙句に「眠くなってきた。君も好きに寝てくれていいよ」と言ったきり、目を閉じてしまった透を見る。 気弱に見える優しい顔も、眠ってしまえばこの世に怖いものはないと考えている彼の意志を映しているように見える。 透みたいに強かったら、他人の評価を気にしない人間でいられたら、彼に思いを伝えることができただろうか。 肩にのしかかる重みと温かさが心地いい。 いつの間にか、匡臣も目を閉じて眠りに落ちていた。
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