第一章

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目が覚めたのは翌日の朝八時過ぎだった。 晩酌をしながらソファで眠ってしまったせいで体中が痛い。おまけに寝落ちした透が雪崩れてきていて重たい。 「ソファで寝ちまうとかいい年こいた大人が揃いもそろって何やってんだか」  一人ごちると、匡臣はよく眠っている透を起こさないように注意しながら、反対側のひじ掛けに凭れさせる。 透は無駄に身長が高くて、インテリのくせに体格がいいので苦労したけれど、なんとか起こさずにどけられた。  泊めてくれたことと昨晩の晩酌のお礼に、朝食を作ってやろうと冷蔵庫を開ける。 「なんだよ、これ。酷ぇな」  酒のつまみになりそうなチーズ、生ハム、マーガリンやジャム、ヨーグルト、鮭フレークと卵と調味料以外ほとんどなにも入っていない。 冷凍庫は冷凍食品が非常食のようにいくつか入っているだけで、野菜室にはレモンやリンゴなどの果物が少しある以外は何も入っていない。 自炊していないことを明らかにする内容だ。 「まったく、これじゃあ何も作れねぇよ。仕方ない奴だな」  溜息を吐きながら匡臣はいったん自宅に戻った。  自分の家の冷蔵庫から料理できるだけの食材を持ち込んで冷蔵庫にしまうと、エプロンを勝手に借りて調理を始める。  同じ大学に通っている頃から、何度も使ってきたキッチンだ。何がどこにあるかは、ともすれば透本人よりもきちんと把握している。 慣れた手つきで料理を次々仕上げる。肉じゃが、トマトソース、アジの南蛮漬け、ピクルス、鳥胸肉のハムと日持ちする料理を数点作ってタッパに詰めて保存してから、今朝の朝食にホウレンソウのお浸しと焼き魚、味噌汁と卵焼きをこしらえる。 起きてから二時間が経過していた。いくら透が朝寝坊の常習犯だとはいえ、そろそろ起こしても大丈夫だろう。  キッチンを出てソファに戻ると、まだ爆睡している透の肩を揺すぶった。 「おい、朝飯ができたからさっさと起きろ」 「ん、おはよう、匡臣。いい匂いがするね」 「顔洗ってこいよ。冷めちまう」 「ありがとう」  まだ半分寝ぼけた顔で透が洗面所に歩いていく。その間に食卓を整え、ご飯をよそって先に席に着いた。 「いただきます」  手を合わせてから、二人は箸を手に取った。 「うん、美味しい。久しぶりにちゃんとしたご飯を食べた気がするよ」 卵焼きを頬張りながら言った透に、匡臣は苦笑する。 「お前、普段は何食って生きてんだよ。レトルト食品とかカップ麺ばかりか?」 「そんなことないよ、チーズやハムも食べてる。あと、絵の題材に使った果物だね。けっこうちゃんとしているんだ」 「ちゃんとねぇ。それはちゃんとした食生活とは言えねぇな。偏り過ぎだ。冷蔵庫に日持ちする料理を作っていれといた。冷凍庫にもパスタソースを凍らせてある。また気が向いたら食えよ」 「ありがとう、いつも。君が来てくれると助かるよ。匡臣はいい奥さんになれるね」 「馬鹿、男が嫁になるかよ。いい旦那さんの間違いだ」  笑いながら訂正しつつ、胸が小さく疼くのを感じた。 透の言葉に深い意味はないと、自分を宥める。 天然か計算か、彼の考えは読めないことが多い。善良な顔をしているが、意外と狸だったりするのだ。  ゆっくりと時間をかけて食事し、二人で気分転換に散歩にでかけた。 駅前の美味しいと有名な個人経営のサンドイッチ店でサンドイッチとコーヒーを買い込み、アパートから二十分ぐらいの場所にある自然公園のベンチに腰を下ろした。  昨日までのジトジトが嘘のように、からりと晴れた空。絶好のピクニック日和だ。 風に乗って初夏の気配を孕んだ匂いが届いた。生命力のある、緑の香りだ。 「いい天気だな」  ベンチの背に両腕をひっかけてふんぞり返り、空を見上げて匡臣が呟く。両腕を力なく垂らして脱力しきった態勢で隣に座った透が「本当にいい天気だね」と腑抜けた声で返事をする。  どちらからともなく、購入したサンドイッチに手を伸ばし、頬張った。 同じ種類を二つずつ個包装したサンドイッチを一つずつ分け合い、三種類の味を楽しむ。 個人主義の匡臣だが、分け合える相手がいることは、素晴らしいことだとがらにもなく思った。  小麦の甘みを感じる、もっちりと柔らかな食パン。 青臭くないアボガドと程よい塩気のスモークサーモン、口をさっぱりさせるみずみずしいレタス。噂通りの美味さだ。匡臣は目を細める。 サーモンとアボガドのサンドを食べると、次は透が選んだ照り焼きチキンとマヨネーズで合えたきんぴらごぼうのサンドイッチを頬張る。 マヨネーズのこくと照り焼きソースの甘味。子供が好きそうな味だがこちらも美味しい。  最後の一つは定番の卵サンドだ。 昨今、卵サンドといえば、厚焼き卵を挟んだものや、スクランブルエッグを挟んだものなど色々あるなか、敢えて定番のタルタルソース状の卵を挟んだ卵サンドだった。透も最後にこのサンドイッチを残していた。 「定番だよね。面白味がないのかもしれないけど、僕はこれが一番好きだな」 「俺もだ。シンプルな料理には、シンプルな具が一番合う」  二人で顔を見合わせて笑う。 ひとしきり笑ってから頬張った卵サンドは、オーソドックスな味がしたけど、やはり美味しかった。  最近仕事に追われて忙しかった。こんなふうにのんびり過ごすのは久しぶりだ。 時間に追われていない、ゆったりと揺蕩うようなひととき。 歯車生活から解放され、人間らしさを取り戻したような気分になる。 「俺も自然界の動物の一種だったんだな」  木漏れ日に目を細めながら匡臣が呟くと、透が小さく笑った。 「当たり前だよ、匡臣。人間も動物の一種さ」 「そうなんだけどな、キリキリ目的もなく会社の命じるままに仕事してると、時々自分が何者か忘れちまうもんさ」 「そうだね、匡臣はちゃんとした社会人だからね」 「何言ってんだ。お前も社会人だろ、透」 「僕は違う。就職活動の際に受けたエゴグラムの結果を見たら、フリーチャイルドの値が高かった。つまり、永遠に大人になれないピーターパンなのさ。まあ人生の落伍者ってところだね」  こともなげにいつもののんびりした調子で透が言う。横顔は笑っていて、悲壮感はまったくない。 「羨ましいよ、お前が。好きなことを見付けて、誰に何を言われようが続けている。幸せもんだな」 「周囲の人間は不幸にしているけどね。このまま画家として日の目を見なかったら、もう笑うしかないよ」 「お前でも不安に思うのか?」 「いや、思わないね。今まで育ててくれた両親に申し訳ないとは思うけどね。まあけど、僕自身は周りの人間に無意味なことに時間を費やして一生終わったと貶されようが、売れない絵なんか趣味で書いてちゃんと働けクズと罵られようが平気さ。絵筆を置いたら僕は僕じゃなくなる。死んでしまうんだよ」 透の真剣な薄茶の瞳が匡臣を見詰めた。 この目だ。この目に憧れ、密かに思いを寄せてきた。 力強く胸元で握り締められた、指が長く大きな節くれだった透の手に視線を落す。 あの手に触れたい、触れられたい。ふいに邪な思いがもたげた。 反射的に手を伸ばす。思わず手を握りそうになった。寸でのところで軌道を逸らして、何気ない様子で透の広い肩を叩く。 「透はもしかすると、ムンクの生まれ変わりかもな」 「ムンク、そう、ムンクか。光栄だね、大成功した画家だ。人間の内面を描き、芸術に新たなる可能性を与えた画家だ」 「お前もなれるさ」 「ありがとう、なれるといいな。でも、なれなくてもいい」 無欲に笑んだ透を見て、彼は解脱しているのだと思った。 彼にはきっと、欲など存在しないのだろう。 匡臣は透の肩からそっと手を退けた。
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