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数日後。
洋菓子と珈琲しか出さない『白姫』は昼食時は大抵暇だが、今日もやはり暇だった。
客は一階にしかおらず、席はその半分も埋まっていない。
扇風機が風を送り続けているものの、今日もやたらにいい天気なせいで、暑さを払い切ることはできていなかった。
俺はいつものように女給さんと給仕をしつつ、そわそわしながら水藤さんを待つ。
せっかく珈琲と白姫を食べ放題にしたのに、水藤さんはあれからもう二日も来ていなくて、流石にそろそろ顔が見たかった。
来てくれないと、嫌われてしまったのではないかと不安になってくる。
些か想像力を暴走させてしまったし、泣いてしまったりもしたし。
いろいろ考えている内にどんな顔をして水藤さんに会えばいいのかわからなくなってきたが、それでもやっぱり会いたかった。
紫苑さんに言霊を使った水藤さんのことが、少し心配であるし。
特に落ち込んでいたようには見えなかったが、やりたくないことを敢えてやったことに変わりはなかった。
ああ見えて、実はひどく落ち込んでいたり、傷付いていたりするのかも知れない。
水藤さんのおかげで全てが明らかになって、事態を更に悪化させることだけは避けられたのだから、気に病んだりする必要は全くないと思うのだが。
俺は勘定場の前を訳もなくうろつき、そうして十三時近くになった頃、とうとう水藤さんが日傘を手にやって来た。
今日は小縁を帯びた藤色の和服姿で、いつもと同じ、今にも鼻歌を歌い出しそうな上機嫌だ。水藤さんの心の内はどうかわからないが、少なくとも外面的には元気そうでほっとする。
「いらっしゃいませ」
俺は極力他のお客さんに対する時と同じ調子で言うと、水藤さんは目をわずかに細めて微笑んだ。
「こんにちは。御馳走になりに来たわ」
「どうぞ、お席にご案内します」
俺は品書きを手に、水藤さんを真ん中の空いていた卓子(テーブル)に案内した。
卓子に日傘を立て掛けた水藤さんが椅子に腰を下ろしたところで、品書きを手渡しながら問いかける。
「ご注文は?」
「じゃあ、黒姫と水出し珈琲を頂戴」
「畏まりました」
俺は厨房に注文を通すと、先日と同じように水藤さんが来たことを知らせて、父さん達に後を頼んだ。
そうして水藤さんに黒姫を出してから、三階の自分の部屋へと向かう。
手早く着替えを済ませて筆記用具の入った鞄を手に戻って来ると、水藤さんはこれ以上はないというくらいの至福の表情で、黒姫を味わっていた。
本当に甘い物が好きなのだろう。
何だか微笑ましくて、俺はつい口元を綻ばせて問いかける。
「あの、またお話を聞かせて頂いても構いませんか?」
「勿論」
俺は水藤さんの向かいに腰を下ろすと、鞄から手帖と筆箱を取り出して言った。
「先日はお仕事に同行させて下さって、ありがとうございました」
「別に、お礼なんていいわよ。それも約束の内なんだし」
俺は先日最初に書いていた手帖(ノート)を開くと、筆箱から鉛筆を取り出しながら訊く。
「そう言えば、水藤さんは紫苑さんの秘密が何か見当が付いてたみたいでしたけど、どうしてですか?」
「八色さんの話を聞いた時に、何となくそう思ったのよ。紫苑さんも真紅さんもある程度の年だし、それなりの教育を受けていて頭も悪くなさそうだし、命に関わりかねないことならまず文人さん達に相談した方がいいことくらい、わかっていた筈でしょ? でもそうしなかった。それは何故なのかって考えたら、納得できる理由の一つにあのことが浮かんだのよ。ああいう被害に遭った人は家族にも打ち明けられなかったりするものらしいし、あのことを踏まえれば八色さんが聞いた会話の意味もわかるもの」
水藤さんは紫苑さんが受けた仕打ちを口にすることすらおぞましいのか、『あのこと』という曖昧な言い方をした。
誰も俺達の会話に聞き耳を立てたりはしていないだろうが、近くに他のお客さんもいるし、秘密が漏れないように配慮しているのかも知れない。
「ああいう探偵小説に出て来そうな事件が持ち込まれるのって、よくあることなんですか?」
「まさか。大抵はもっと単純な仕事よ。明らかに事件性があるものは、大体警察が動くし。あの事件は広いお屋敷で起こったせいで、中にいる人がお互いの行動をよく把握できてなかった訳だけど、あそこまで裕福な人はごく一部だもの。もっと狭い家に住んでたら、多分白妙さんは私の所には来なかったんじゃない?」
それもそうだと、俺はすんなり納得した。
探偵小説だと次から次に奇々怪々な事件が舞い込んで来たりするものだが、やはり現実はそう都合良くは行かないらしい。
だがあまり現実に即してしまうと、物語が成り立たなくなってしまうので、そこは都合良く書いてしまおう。
そうしよう。
俺がそう心に決めながら水藤さんの話の要点を書き留めていると、水藤さんが問いかけてきた。
「あなた、今度の仕事も付いてくる気なの?」
「はい。実際水藤さんがお仕事をされている中で見えてくるものもありましたし……駄目でしょうか?」
「別に駄目じゃないけど、場合によっては家族や友達同士が口汚く罵り合ったりするのを目の当たりにすることもあるのよ? 今回みたいに誰も悪くないのに、誰も幸せになれないことだってあるし、あなたみたいな人にはきついんじゃない?」
俺は手を止めると、水藤さんと正面から目を合わせて言った。
「確かに、心に全く負担を感じないと言ったら嘘になりますね。でも、世の中には全く落ち度がないのに理不尽に傷付けられたり、殺されたりする人がいるっていう、当たり前ですけど、これまであまり身近に感じられなかった事実に初めて触れて、いろいろと思うところがあったんです。平気で人を傷付ける人がいる一方で、傷付いても人を思いやれる人がいたり、傷付いた人に必死で手を差し伸べようとする人がいたり……人間って身勝手で冷酷でどうしようもない一面もありますけど、綺麗で尊い一面があるのも本当で、水藤さんのおかげでもっと人間が好きになりました。だからもっともっといろんな人に会って、人のいろんな面を見て、俺が感じたたくさんのことを小説にしていろんな人に伝えたいって、そう思うんです」
綺麗なものも醜いものもたくさん目にすることになるだろう。
それらを分かち合う相手が水藤さんであることが、本当に嬉しかった。
いつか小説ができたら、一番に水藤さんに読んでもらいたいと思う。
水藤さんはふっとその瞳を和ませると、再び黒姫に肉刺を入れながらどこかほっとしたような口調で言った。
「あなたは、いい意味での人間らしさをとても信じてる人なのね。人の悪意を目の当たりにすると、人によっては人間不信に陥ったり、心を病んだりすることもあるから、ちょっと心配してたんだけど、あなたは大丈夫そうで良かったわ」
水藤さんが俺のことを心配してくれていたと知って、俺は胸に温かいものが広がるのを感じた。
やっぱりこの人は優しい。
「俺のことより、水藤さんこそ大丈夫なんですか? 本当は人に言霊を使いたくなかったんでしょう?」
「まあね。でも仕事だから。耐えられない程嫌だったら、こんな仕事はしてないわ」
水藤さんは何でもなさそうにそう言った。
虚勢かも知れないが、俺がとりあえず安堵した時、背後から聞き覚えのある女性の声がする。
「こんにちは」
俺が振り返ると、そこにいたのは白妙さんだった。
今日も先日と同じような黒い䙱(ワンピース)に黒い鞄を提げていたが、顔色は随分良くなっていて、元気そうだ。
薄く施された化粧が、その美貌をより際立たせている。
きっと残金の支払いに来たのだろう。
白妙さんは笑顔で軽く会釈して言った。
「先日はお世話になりました。先程水藤さんのお家に伺ったら、またこちらだと伺ったもので」
俺が卓子の筆記用具を片付けて白妙さんに席を譲ると、白妙さんは礼を言って俺が座っていた席に腰を落ち着けた。
俺は水藤さんの隣の席に腰を下ろしながら言う。
「良かったら、何か御馳走しましょうか? 美味しい物を食べ慣れてる人にはちょっと物足りない味かも知れませんけど、一応この辺じゃ珈琲と白姫って岌希が美味いって評判なんですよ」
「ありがとうございます。頂きます」
俺は女給さんに声を掛けて、水と品書きを持ってきてもらった。
白妙さんは水出し珈琲と白姫を頼むと、鞄から白い封筒を取り出し、水藤さんの前に差し出す。
その封筒が、妙に分厚い気がするのは俺の気のせいだろうか。
「残りの分の支払いです。ご確認下さい」
「拝見します」
水藤さんは封筒の中を一瞥しただけで、碌に数えもせずに言った。
「請求書にしたためた額より、随分多いようですけど?」
「ええ、父の意向で……『今回の件はどうか内密に願いたい』と。ご気分を害されたかも知れませんが、水藤さんの働きに相応の額だと思いますし、どうぞお納め下さい」
水藤さんが困り顔で封筒に目を落とした時、女給さんが盆に白姫の乗った皿と肉刺(フォーク)を乗せてやってきた。
慣れた手付きで白妙さんの前に白姫の乗った皿と肉刺を置いた女給さんがお辞儀をして去って行くと、水藤さんは困り顔のまま俺を見て訊いてくる。
「どうしたらいいかしら?」
「白妙さんもああ言ってくれてるんですし、受け取ったらどうですか? お金はたくさんあって困る物じゃないですし」
水藤さんは封筒に目を落として考え込んでいたが、封筒を懐にしまうと、白妙さんに頭を下げた。
「確かにお預かりしました。どうもありがとうございました」
「いえ、こちらこそありがとうございました。辛い思いもしましたけど、水藤さんにお願いして良かったです」
白妙さんはそう言うと、行儀良く手を合わせてから肉刺を白姫に入れた。
一口大に切り分けた白姫を口に運ぶと、その途端に花が綻ぶような笑顔になる。
「美味しいです。初めて食べた筈なのに、どこか懐かしいような、優しい味ですね」
白妙さんの感想に、水藤さんはうんうんと頷きながら言った。
「わかります。温かい味って言うか、また食べたくなる味ですよね」
「ですね。評判になるのもわかります」
「珈琲も苦味がなくて美味しいんですよ。私、苦い物が苦手なんですけど、ここの珈琲は大好きなんです」
「まあ、それは楽しみですね」
若い女性同士ということで通じるものがあるらしく、水藤さん達は随分打ち解けたようだが、この場で唯一男の俺は少し身の置き所に困った。
どうにも気まずい。
俺があさっての方向に視線を向けていると、水藤さんが控えめに白妙さんに問いかけた。
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