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テン2
関東平野の奥には那須連峰が聳え立つ。白倉山を源流とする箒川と、那須岳を源流とする那珂川に囲まれ、那珂川と箒川が合流する那珂川町を南東側の頂点に、那須連峰に向けて木の葉のような形で広がる扇状地を『那須野が原』といい、その広さは4万ヘクタールある。
川が運んだ堆積物は水はけ良いが保水力がない、火山灰が多く含まれた火山性の土地はさらに排水性が高くなり、酸性化した土地はやせていく。長く人が営むことのできない不毛も荒野となった。
那須与一崇高は1169年頃、那須の豪族那須資隆の子として、神田城(栃木県那珂川町)に産まれる。
この当時の合戦は、馬上からの弓による射撃戦が中心であった。与一は幼い頃から弓の腕が達者だったという。
それからも荒野で弓の練習をしていた与一だったが、ある日、
「明日は十郎も連れてきていいか、あと馬で来たい」
より実戦的な騎射での狩りをしたいようだ。
「屋敷の近くなどで他の者たちともやっているだろう、我のいない所でやれば問題ないぞ」
「いや、馬ならテンと同じ速さで走れるだろう、思い切り、走って、狩りをしてみたい」
与一と一緒に荒野を走り抜ける、ということに惹かれるテン。ゆらゆら尻尾を振りながら、考える素振りをしつつ、
「まあ、いいだろう、ただ十郎も来るなら狼の姿は良くないだろう。大型の黒犬とでも見えるような術を掛けて来よう」
「テン、そんなことできるの」
「人里に近づく時なんかにはな」
翌日、与一と十郎は一緒に来た。我は大型の黒犬、与一が荒野で手懐けていた、という風にしたのだが、敏感な馬には我が何者かはすぐ分かったようだ。現れた我に驚いて馬が暴れだし馬上の二人を振り落とす。まあ、しかたないのだが。
我は馬たちに、馬上の人間の意に沿って乗せている限り、襲うつもりは無いことを約し、落ち着かせた。十郎は、なんで馬が急に暴れだしたのか意味が分からないという顔をしながら頭を振っていた。
落ち着いた馬を走らせ、二人と一匹は荒野を走る。今夜の獲物は氈鹿の群れの中でも大型の長の雄だ。我が追い回し群れから長個体だけを引き離す。長は群れを守るためにも群れから離れた所を、我が追い上げる。左右から現れた疾走する馬上から二本の矢が射られる。十郎の矢は心臓に、与一の矢は眉間に見事に刺さった。狼の群れで行う狩りにも劣らない見事な狩りだ。
「すごいな、与一のテンは! これほど見事に狩りの手伝いをする犬なんて見たことないぞ」
十郎が我を褒める。与一は嬉しいのか、
「そうでしょ、兄上。テンと一緒にこの荒野で弓の力を磨いたのです」
滅多にない与一の子どもらしい笑顔に我の尻尾も力強く振られた。
それからも何度か与一と十郎は荒野を走り抜け狩りをした、時にはテンも一緒に。
ある日、我は与一に提案した。
「明日は、もう少し北、お前たち人が『那須岳』と呼ぶ山まで行かないか」
与一は少し首を傾げ、いいけど、なんで、と問う。
「まあ、元々我がこの辺に来るのは、山の神の元に詣でるためだ、そろそろ他の地の様子を見に回るのでな、明日詣でるついでに、走りやすい荒野だけでなく山地での馬上での狩りも極めた方がいいだろう」
「分かった、十郎兄上と一緒に行く」
次の日朝早く、里を与一と十郎は出発した。途中で我も一緒になり荒野を走る。時には水無川の川底を横切り、北上していく。標高が上がって行くにつれて、荒涼とした荒野から徐々に緑の木々を生い茂る山裾へと入っていく。
大きな広葉樹が生い茂る森の中の狩りは、荒野とは違うものがある。木々が邪魔し、獲物も木々を抜けて逃げようとする。さらに与一と十郎は騎乗しての弓使いだ。狩りの難易度も上がろうというものだ。しかし、二人と我の息のあった連携はなかなかうまくなったものだ。順調に鹿や猪に止めの矢を射る。
遠くに見えていたお山の火口の吐く煙が随分近くなり、火山灰の堆積物に硫黄の匂いが混じるようになり、森の縁を抜けようかという所に大きな鳥居と階段を上った奥に背後に大きな森とその奥に御岳の頂上を背負ったお社が見えてきた。
(おかしいな、お社辺りから妙にざわつくような、嫌な気配がする)
山裾の森で狩りをしている頃から、時折、背中がぞわぞわするような気配を感じていた。お社に近づくにつれて、気配が濃くなる。
鳥居の手間で馬を繋ぐため、与一と十郎が馬場へ行くと、数頭の馬と人がいた。我は少し遠ざかり見守る。与一の『目』通して、見ている物がわかるが、我の『耳』には、風が声を運んでくれる。
「与一、あれは、うちの家士たちじゃないか」
「そうだね、いつも父上と行動している者だな、他の人は南から来た人かな、この辺じゃ見られない立派ないで立ちだよ」
馬も人も二種類に分かれるようだ。地元の那須家の者ともっと南から来た武家の者と。
那須家の者が二人に気が付いたようにこちらにやってくる。
「十郎様、与一様、本日はこのような所まで、どうされましたか」
「いや、与一と一緒に下の森で狩りの稽古をしていてな。ここまで来たのだ、お社にお参りしていこうかなと思って」
那須家の家士は、なるほどとうなずきながら、
「我が一族一番の弓上手な十郎様と与一様ですからな、さすがでございます。ただ、本日はお屋形様がお参りで少々はばかりがございまして、また後程にしていただいてよろしいでしょうか」
どうやら那須家棟梁の那須資隆は坂東武士との秘密の会合ということか。
十郎も与一も察するものがあったのだろう。与一は、どうする? という目で我のいる方向に目を向けてくる。その時、鳥居側の参道の階段ではなく、お社の後ろ側の急な階段を駆け下りてくる者がいる。坂東武者の一人だった。
「お待ちください。主より十郎様と与一様にお会いしたいので、お社までおいでくださいとの事です」
急いで降りて来たのだろう、少々息が上がっている。
「それと、お連れの獣殿……も、ご一緒に、との事です」
那須家の者には、与一が荒野で手懐けている大型の犬がいることが、知られてきている。
我は少し離れた所から一つ飛び、与一の元に飛んだ。与一は我の首を撫でながら、
「じゃあ、行ってみますか、十郎兄さん」
鳥居の前で一礼してから階段を上がって行く。
上に、人ではない何かがいる。いつものお社は山の清浄な空気に包まれた、見守られているお方の存在を感じられる場所だったが、今のお社からは暗い禍々しさと圧倒的な強気の気配がする。
我の全身が逆立ち、上ることを拒否する。思わず尻尾を丸めてしまいそうになるのを、ぐっと牙に力を籠め、与一と十郎の間を歩く。人はこういう気配に鈍いのか、与一も十郎も気づかぬようだが。
両脇を木々に囲まれた階段を上りきるとお社の前の広場にでる。山裾を見下ろせる広場の縁に、二人の武士がいた。一人は那須資隆、一人は与一より十歳くらい上だろうか。小柄だが物腰柔らかな都風の坂東武士? とでも言うのがぴったりな武士だったが、問題は、その若武者の背後にどす黒い靄のようなものが渦を巻きながら、獣とも人とも言えぬ形を作っていることだ。その黒き渦から人の顔のような物が浮かびあがる。
(これは京の都の禍津神か、那須のお方よりはるか上の神格の……)
この地には数多くの神がおわす。神には神格がある。お社の上に銀髪の真白き神官服の那須の神の姿が透けるように見える。我の視線に、首を横に振り、どうしようもない、という困ったような顔をされている。
「十郎、与一、こちらへ来なさい」那須資隆が二人に声を掛ける。
与一と十郎は、父親と若いが明らかに格上と思われる武士に礼を取る。
「那須殿は、良い息子殿をお持ちだ。先ほどより山の裾野で見事は弓の腕を披露されていた」
坂東武者にしては静かで落ち着いた声だ。人の目でこの距離で狩りの様子が見えるはずもない。見えたのは禍津神だろう。
「十郎、与一、こちらのお方は坂東武者の総棟梁、源義朝様の九男、九郎義経様じゃ」
「お目通りかない、恐悦至極にございます」
「気楽にするがいい、ここへは必勝祈願にきたのじゃ」
しばらく前から坂東武者が京へ戦をしに行くらしい話はあった。時々犬のふりして里近くに降り、『耳』や『目』を使い、人の動きを確認している。旗印は源義朝の後継者、嫡男、源頼朝であり、義経の兄である。今、義経は奥州にいたはずだ。いよいよ出陣する、ということか。
「義経様、その件はこの者たちには……」
「いやよい、資隆よ、この二人の弓術はみごとじゃ。出陣の際、この二人、儂に呉れぬか?」
義経の声は不思議と澄み切った心地よいをしている。人が何げなくそのまま、その言に従ってしまうような……。
しかしそれを可能にしているのは、後ろに憑いているお方だ。浮かび上がる黒き顔は、赤い目、赤い口を開き、テンを見つめる。
(ほう、坂東の天狼王か、面白いな、人に『目』を貸すか)
低い、奈落の底から響くような声。全身の毛が逆立つが、堪える。
(京のお方が人に憑いていることに比べれば、些細なこと)
黒き顔は赤い口の端を歪め、笑った? ように見えた。
(そう、警戒するな。この義経という男も面白い男でな。少々付きそうている。この地やここのお方に用事があるわけではない故、心配するな)
(与一を連れて行く話をしているではないか)
(心配か、平氏打倒の旗が上がる、坂東武士なら、戦になろう、戦で功績を上げれば誉であろう)
人の話は終わったのか。背後に禍津神を憑けた義経はお社を出ていく。那須のお方と二・三言交わしていたが、何を話していたのかは、我には分からなかった。
奥州にいる義経が平家打倒のため兄頼朝の元に馳せ参じる際、与一と十郎を従軍させることを資隆は約束していた。必勝祈願にお社に来たという名目の義経は、地方の豪族に会い、参戦の根回しをするのが真の目的にだった。
それからしばらくして、頼朝が平氏打倒の兵を挙げた。那須家の動きも活発になる。与一と十郎の初陣だ。他に数名が供をする。義経が奥州から上って来るのに合流する。
馬もいない、十郎もいない。久しぶりに与一と荒野で月をみる。水無川の底の石に座り……。
「この一・二日中に、義経様の手勢と合流して出発することになると思う」
与一は月を見つめながら真剣な声音で言う。
「そうか、初陣か」
「うん……」何も言わずに黙り込む与一。
「怖いか?」与一に尋ねてみる。
「怖くなんかない……、いや怖いのかも知れないかな」
与一は十一歳、初陣がいきなりの大戦だ、不安もあろう、日中は家の者に虚勢を張ってようとも。
「我は人のことはよう知らないが、人が人と争うために行くのだ。怖いわけがない。だがそれでも与一は行くのだろう?」
「そうだね、怖いけど……。俺は坂東武者だ。自分の弓で功を成したい気持ちもある。テン、帰って来たら、またここでテンと一緒に狩りができるかな?」
与一は我の頭から首の辺りを撫でる。尻尾を僅かに揺らしながら、
「そうだな、与一が帰って来たら、またこの荒野で兎や鼬を追いかけようぞ」
それから数日後、与一と十郎は出陣していった。紅糸を威しにした銅丸鎧に星兜、騎乗した与一は涼やかにも凛々しい若武者姿だ。
この前、荒野で与一に問うた。我の『目』をどうするか、と。与一の弓の腕はとうに『目』の効果を超えている。返しても何ら変わることはない。与一はしばらく考えているようだったが、
「この『目』があれば、俺の見ている景色をテンも見ることが出来るのだろう」
「その通りだ」
「じゃ、まだこのままで。俺が見るものをテンも見ていてくれ。帰ってきたら、返そう」
「分かった。帰ってきたら、返してもらおう」
帰ってきたら、返してもらうのだから、無事帰って来い、本当はずっと側に付いて行きたいのだから。
そう思ったことを思い出す。与一と一緒にいるのが嬉しい、与一の側にいたい。が、天狼王としての役目とおのが領域がある。他の神の領域を勝手に犯すことはできない。禍津神みたいのは特殊だ。
天狼王たる我が何故、ここまで一人の人間にこだわるのか自分でも分からなかった。若い狼達の中には、我が人間と仲良くしているのを苦々しく思っている者がいるのも分かっていた。
(なぜ与一のことがこれほどに……)
テンはいつまでも出陣していく与一を見送った。
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