2人が本棚に入れています
本棚に追加
テン3
治承4年(1180年)源頼朝が伊豆にて挙兵すると、義経は兄の元に馳せ参じた。奥州より同行した奥州藤原氏家臣の他、途中の合流した豪族の臣と合わせて数十騎であったという。頼朝より遠征軍の指揮を委ねられた義経は坂東を平定し、西国へ進軍。京において木曽義仲を討ち取り、西走する平氏軍を追い、一ノ谷の戦いでは、鵯越の峻険な崖からの逆落としで奇襲、平氏軍を大混乱に落とし、鎌倉軍の大勝となった。さらに西へと移動をする平氏軍を追い、瀬戸内海沿いにある平氏の拠点讃岐国屋島を奇襲する。
周辺の民家に火をかけて大軍襲来と思わせ、一気に屋島へと攻め込む義経軍。海上からの攻撃のみを警戒していた平氏軍は狼狽し、海上へ逃げ出した。しかし、義経軍が意外に少数と知った平氏軍は、岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。夕刻になるも勝敗がつかず、いったん引き分けのような休戦状態となる。その時、沖にいる平氏軍から若い美女の乗った小舟が現れ、竿を立て、そこに「扇」を結び付け、射よと源氏を挑発。
(人は戦いだというのに、変わったことをするものだ)
生き物であれば、時に自分の生存や縄張りを掛け、戦うこともある。しかし戦いの中で明らかに必要ないこと……人はそれを遊びとか風流とかいうのかも知れないが……、与一の目を通してみる光景は理解できなかった。小舟に乗った若い女が竿の先に付けた扇を「射抜いてみよ」とでも挑発しているようだ。
与一と十郎はこれまでの戦で十分その力を発揮していた。義経が用いる奇襲にも参戦し、いつか騎射において並ぶものなしと言われるようになった。
音が聞こえないのは少々残念だ。近ければ風が音や声を拾い『耳』に届けてくれるが、さすがに遠く西国、我の領域外となると難しいか。
音は聞こえずとも、沈みゆく夕日の中、白と藍のかさねに紅の袴の若い娘が持つ、紅の地に金箔の日の丸を押した扇が、波に揺り上げられ、小舟とともに上下に揺れている様は、戦いの場とは思えない一枚の絵のようだった。
沖では平家が、海一面に舟を並べて見物している。陸では義経軍が馬のくつわを連ねてこれを見守っている。
義経が与一の元にやってきた。
「与一、おまえがやれ。おまえ意外に出来る者はおらぬだろう」
小声になり、
「坂東の天狼王が認めたその腕、見せてもらおう」
(声が聞こえている? 義経に憑いている京の禍津神のせいか)
「わかりました」と短く、はっきりと答えた与一は、海に浮かぶ小舟を見つめ、意を決して、海に向かって馬を乗り入れた。海の中を馬で進める所まで進んでもまだ扇まではかなりの距離がある。
与一は鏑矢をつがえる準備をして、扇を睨んだ後、目を瞑る。故郷、那須大明神への祈りの言葉を紡ぐ。そして我の心に一言「テン!」と叫ぶ声が聞こえる。
「己を信じよ、この我、坂東の天狼王に名をつけ、『目』ですら凌駕した自分の弓と、我と那須の地を信じよ、与一!」我は精一杯の言霊を乗せる。
目を見開いた与一は、風が凪いだ一瞬を見逃さず、鏑矢をつがえ、十分に引き絞り、放った。与一の体の割に大きな矢は、ひゅーっとうなりを立てて飛んで行き、みごとに扇の要の脇を射切った。舞い上がって扇は夕日にあたり、金箔の日の丸が輝いた後、海を散っていく。
静まり返り、固唾を飲んで見守っていた両軍すべての兵が、大歓声を上げる。沖では平氏がふなばをたたいて感嘆し、陸では源氏がえびらをたたいて与一をほめたたいた。
しばし、放心していた与一は、周りの歓声、そして与一への賞賛でようやく、自分が的を射抜いたことを実感したようだ。
(ありがとう、テン!)
屋島を陥落した源氏軍は、次の壇ノ浦の戦いで平家軍を滅亡へと追い込んだ。
源氏と平氏との戦いが終わり、沢山の褒賞をもらい、与一と十郎は故郷へ帰ってきた。出陣の際の幼さは消え、見事に精悍な若武者ぶりであった。家中の歓待振りは言うに及ばずだ。
那須のお社にも帰還のお参りと寄進を行い、久しぶりに荒野で与一と対する。
「よく、無事に帰ってきたな、与一。誇り高い武功をあげたというのにどうした?」
与一は、夜の荒野へ来たときから、憂い顔をしていた。昼間大勢に囲まれ、賞賛を浴びているときは、笑顔を応対していたはずだ。
「生まれ育った地に帰ってこられたのはうれしいよ。ただね……、一杯、殺したよ、人を。俺は武士だ。戦いだから当然だけどね。生き残るってそれだけたくさん人を殺して来ることなのだな……。この荒野で十郎やテンと狩りをして糧を得る。それだけで良かったのに……」
「そうか、でもこれからまたここで狩りをして生きればよかろう」
与一の中に昔は無かった滓の塊のような物を感じる。与一は暗く笑む。
「そうしたいのだけど、無理かな。今回の働きでいくつか荘園を賜った。数日中には領地の山城国伏見に行かないといけない」
与一は我の頭から耳の辺りをゆっくりとなでる。武士が荘園を賜る、誉であろう、しかしその荘園を統治するため、赴くのも当然だ。我の尻尾が勢い無くしおれる。
「そうか、寂しくなるな」これが、寂しいと思う気持ちなのか。自分が寂しいと思っていることにびっくりする。与一も寂しそうに微笑む。
「テンは、寂しいと言ってくれるのだね。テンの毛を温かいね。表面は固いのに中はふかふかだ……。今度は『目』を返していくよ。もう、出来れば俺は大きな戦には行きたくない」
「そうか……」与一は我の首から背中と順に撫でていき、最後は我を抱きしめる。我は水無川の川底から荒野に浮かぶ月を見つめた。
それからどれ程の月日がたっただろうか。その年の春、奥州へ抜けていく一行を少し手助けした。その頃から何かいやな予感で全身が逆立つときがあった。夏を過ぎるころ、我を呼ぶ声があった。
(久しいな、天狼王)禍津神であった。
(久しい、という程ではない。春以来か。義経は残念だったな)そう、平氏打倒の功労者にも関わらず頼朝に追われることになった義経が奥州へ落ちるのを助けた。
(遮那はな……、面白い男であったのだ。短慮な所もあったが、純粋すぎたか)禍津神自身の後悔と寂しさが滲んでいるような声音と思うのは穿ち過ぎか。
(その時手を貸してくれた礼ではないが、一つ教えてやろう、山城国伏見の領地で那須与一は病で死の床にあるぞ!)
(何! 本当か、それは?)そう、この所感じたいやな予感はこれか。
(行くか、天狼王?)
(行くって? 我の本体は領域を出ることは難しい)禍津神は密やかに笑う。
(借りを作ったままではいやなのでな。儂がおくってやろう)
(しかし、義経は死んだ。借りというほどのことではない)
(儂は……、京にとどまることを選んだ。遮那の最後に会ってはいないのでな)禍津神が何のために義経に憑いていたのは分からない。ただ義経が亡くなって悲しいと思う気持ちは確かだ。
(可能なら、お願いする!)
禍津神がおこす風に乗り、テンは駆ける。空を尋常ではない速さで、黒き獣が銀の光跡を残しながら疾走する。一刻程で山城国伏見まで駆け抜けた。
禍津神への礼もそこそこに、与一の気配を探す。荘園の中央、領主館に弱弱しいが与一の気配を感じる。領主館の奥、寝殿に、青白く、頬のこけた与一が畳の上に衾を掛けられ目を閉じていた。衾の膨らみは与一の体が以前の半分程度しかないほどの薄さだ。そして顔には明らかな死相。
禍津神は我に穏術を施していたようだ。周囲に侍る人――医師や呪禁師、家臣達――には我の姿が見えぬようだ。唯一呪禁師の一人が周囲を不安そうに見回している。多少力のある者か。我は与一の枕元に寄り、頬を舐める。
「与一……」さらに尻尾で額の辺りに触る。苦しそうなせきをしつつ、薄っすらと目を開ける。
「テン……なのか?」やっと喉から絞り出したような、擦れた小さな声だ。
何を言ったらよいのか分からない我は、さらに与一のほほを舐める。
「どうした、テン、今になってそのような犬みたいなこと。舐められたのは初めてだな……。お前はかわいいな」
衾から骨と皮にやせ細った手が出てきて我の胸元のそこだけ僅かに銀毛の一房があるあたりを撫でる。その衾から出てきた手が空を切る行為に周囲がざわめくが、我にはどうでもよかった。
領域を犯す心配などどうにかすれば良かった。人に飼われる犬のようでも良かった。与一にずっと付いていれば良かった。
「よいち……、よいち……」我はただ、頬を額を、撫でてくれる細い手を舐める。
「泣くなよテン。俺は俺の命を精一杯生きた。だからいいんだよ」
言い訳がないじゃないか、与一はまだ二十歳をいくつか超えたくらいだ。嫁のいなければ子もいない。与一はせき込み、撫でていた手は力なく落ちる。
「テン、一つだけ、心残りがある……。故郷へ帰りたかった。いや、故郷というより……、あの荒野へ、テンと走り狩りをしたあの『那須野が原』でもう一度……」
叶えよう、その望み。我と共に帰ろう、『那須野が原』へ。
静かに目を閉じた与一は再び目を開けることはなかった。与一の体から魂魄が離れようとした瞬間、我は全身の毛で魂魄を覆う。そして体を翻し、再び空を駆ける。
帰ろう、那須の荒野へ。
『那須野が原』の荒野で3日間、狼の悲し気な遠吠えが途絶えることなく続いた。
最初のコメントを投稿しよう!