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ロウ1
明治初期まで、奥州街道が通っていながら、不毛の大地と呼ばれた「那須野が原」。保水力に乏しい大地に作物は実らず、「日差しを避ける木々もなく、生えている草も短く、なにしろすくって飲めるような水がない」と江戸時代の紀行文に書かれている。
周辺の村共同の入会地として、春先に一面火を放ち焼き畑としてわずかに「まぐさ」を育てているだけであった。
しかし、明治政府による殖産興業政策により、東京から比較的近い距離にある広大な原野に対し、開拓の機運が高まる。当時の土木局の予算の十分の一にあたる事業費を投入した那須疎水により水を確保。道路、鉄道の公益設備の拡充。そして莫大な私財とつぎ込む華族。
次々と送り込まれる開拓団の人々によって、那須野が原は開拓されていった。
人はどんどんその支配領域を広げていった。海に近い所、悠久の川が流れる広大な平野。人が多くなり、村を作り、町を作り、大勢の人の知恵と技術と道具は動物たちを山へと追いやっていった。
(この辺も最近騒がしくなってきたな)
その土地の成り立ちの故、永らく人の住まない土地であったが、最近、東京から人が続々とやってきて開墾とやらを始めた。遠くに水路を造るため、工事をしている人々が見える。鶴橋は唐鍬で掘っているが、石ばかりの路盤に苦労しているようだ。
ロウは苦々しい思いでそれを眺めていた。もちろん、人から見えるような距離ではない。ロウの『目』と『耳』は自分が全速力で一刻駆ける距離くらいなら自由に見たり、聞いたりできる。
ロウは、狼一族の天狼王、テンの孫であった。狼は通常名前など必要ない。ただテンは子に名をつけ、その子はさらに子に「ロウ」と名付けた。
父によれば、ロウはテンに似ている、という。父は、体は一回り大きいが、体色は他の狼と同様であった。ロウは黒毛で、一部に白銀の房が混じる。それがテンにそっくりらしい。父は祖父であるテンのことを色々話してくれたが、正直分からないことも多かった。
特にテンが人と仲良くした、ということが面白くなかった。父の時代、人はその生活の中心地を関東に移してきていた。狼や熊など獣の上位種は、人に狩られ、その生息範囲を徐々に狭めている。
人単体と相対するならば、狼が後れを取ることはない。しかし人は武器、防具を持ち、大勢が組織された動きをする。
ロウは、時々、犬に見えるよう呪を掛け、人里へおりて、耳や目を側立てる。
長い間、江戸で人を治めていた徳川という将軍の世が終わり、京都にいた天皇が東京に入り、人の世の組織が随分変わったことを知った。
人の間で華族と呼ばれる大きな力を持つ人間が大勢の開拓団とともに、この那須野が原にやってきた。那珂川をせき止め、水路を造り始める。最初、なんと無駄なことをしているのか、と思った。この原野の土地は、川が川面を流れることなく地下へ潜ってしまうほど、土壌が貧しい。
しかし、人間はわずかな期間で各地に水路を拡げていく。水路だけではない。広い大規模な「農場」があちこちに出来始めていた。農地を開墾し、牧畜を行い、森を造っていく。
若い狼たちが、人間が飼育している山羊や牛を襲うことがあった。狼たちに飼育されている、自然に生きている、の区別をつけさせるのは難しい。目の前に捕獲できそうな獲物があれば、生きるために狩ってしまう。しかし、それは人間と軋轢を生む。
人と狼が共存することは難しい。普通の狼の数十倍、人の数倍の寿命を持つ、天狼王が、我の知っている限り五代に渡り、人の近づかぬ荒野としてこの那須野が原は我ら狼が君臨する原野だったのだが。
その夜、満月の荒野を水無の蛇尾側に沿って、駆けていると、遠くに狼たちの騒がしい声が聞こえる。そちらに向かい走りながら『目』と『耳』を凝らす。農場の牧畜地帯の外れ、水路をその農場へ引き込むための工事をしている辺りで、一人の人間を囲んで数匹の狼が襲っているようだ。
(若い馬鹿共が! 人を襲うなど面倒なことをしおって)
我は丹田で気を練り、力を乗せ、遠く、高らかに、思い切り吠えた。
「ウッオォーン」
おそらくはこの荒野中に響いたであろう我の声に驚愕し、小さく一か所に集まる狼達。
「お前たち、何をやっている! さっさと去ね!」声に威圧を籠める。
若い狼たちは尻尾を丸めるように逃げていく。
残された人を見ると、手や足にいくつか深くはないが切り傷がある。それでも気丈にふるまおうとしているのか、手に持った人間の武器―拳銃―を持って構えている。
(それで、我を撃つか)人の前に我は立つ。拳銃を持っているが、この人間はその使い方に慣れているようには見えない。
はぁ~っと大きなため息を付いた人は、拳銃と取り落とし、ぺたりと地面に腰を降ろす。
「びっくりした。いよいよだめかと思ったよ」
何とも緊張感のないおっとりした口調だ。まだ、我が目の前にいるのだが。
「君は、他の狼と違って優しい目をしていからね」
優しい、と言われたのは初めてだが、どうやら我に怯えた様子もない。側に近づくと、深い傷ではないが、まだ出血している傷がある。同胞が付けた傷だ。癒してやろう。傷を舐めてやる。我の唾液には治癒効果があり、血はすぐ止まり、回復も早くなる。
人は最初驚いて固まっていたが、すぐ血が止まるのを見て、
「すごいね、君は! 他の狼より大きいし、体の色も少し違うね。しかも舐められると血が止まるなんて、那須の神様のお使いかな、なんてね」
(当たらずとも遠からず、というところではないかな)
「僕は、そういうのあまり信じてないのだけど、奥さんがね、好きなんだよ」
(ほう、若いと思ったが、もう妻がいるのか。家族がいるなら、何故夜にこんな場所へ出てきた? 夜の荒野を舐めている、人間一人襲うくらいの獣はいくらでもいるぞ)
人は我の体を撫でた。
「傷を舐めてくれたお礼、艶やかな手触りのいい毛だね。農場と水路工事現場の見回りのつもりだったのだけど、ほら、満月が綺麗だろう、ついつい満月が一番綺麗に見える所はどこだろう、とうろうろしてたら……」
男は印南丈吉と名乗った。那須の出身の丈吉は、東京の学校で学び、叔父が農場の設立と、那須疎水の建設に関わっていたため、東京から地元へ呼ばれて、農場経営や水路建設の監督などに従事していた。東京で学ぶ費用を叔父に援助してもらっていたということもあったようだ。
「君の名前は? といっても狼に名前はないか。だったら、勝手に僕が付けてもいいかな」
(名前はあるのだがな。……まあ、好きに呼べばいい)
「そうだ、さっきの他の狼を止めた遠吠え。朗々たる響きのいい声だった。ろうろうとした……『ロウ』にしよう」
「ばぅっ」我の一声に合わせて尻尾が揺れる。
「気に入ったのかな、じゃ、『ろう』で決まりだね」
(不思議だな、会話が成り立っている訳ではないが、何となく我の意思が伝わっているような気がする)
丈吉は立ち上がると、
「さすがに夜は冷えるな、そろそろ帰るが、どうだロウ、家に来ないか」
(家に来い、とはどういうことだ。我に飼い犬の真似をしろ、ということか)
天狼王がそんな真似出来るものかと思うと同時に、
「まあ、やっぱり狼を家に連れて行くのは無理があるかな、でもこのまま別れて終わりなのはちょっと寂しいのだよ」
嬉しいことを言う丈吉。今後狼が人間とどう向き合うか考える意味でも人間の暮らしを身近で見てみるのもいいかも知れない。軽く口の中で小さく呪を唱える。我の見た目は犬に近くなる。
「えっ、犬になった? すごいね。でも大きさや黒毛は同じだね。いくつか白銀の房毛があるのも。ああ、顔つきは秋田犬をちょっときつくした感じだね。かっこいいよ」
「がぅ!」体だけではく、顔中なでまくる丈吉、ちょっとうざい、が嫌いではない。
「あははは、ごめん、じゃあ、家へ招待するよ」
我はゆっくり尻尾を振りながら、丈吉に後をついていく。が、この後、ついていった事をちょっと後悔することになる。
「わー! 犬だー」
「大きいよ、ねえ、犬、黒くて大きいよ!」
「わんわん、ワンワン!」
丈吉の家に着いた途端、大・中・小、三人の子どもに囲まれた。いきなり全身なで回され、背中に乗られ、小さいのは足にしがみついている。
(あの――、狼の姿ではないとはいえ、大抵の生き物は我を怖がるのが普通なのだが……)
子どものすることだとされるがまま硬直していると、
「あら、かっこいい犬ね、どうしたの?」
子どもの後ろから若い女が現れる。これが丈吉の妻だろう。
「しず、荒野で一人でいたのでね、連れてきた、名前はロウだ」
「名前、ロウ!」「ロウ!」「ロウちゃ!」三人の子どもが姦しい。
しず、というのが妻の名前か。しずは我と同じ高さに腰をかがめ、両手で我の顔を抑え、目を覗き込む。
「ふ~ん、澄んだいい目ね、『ロウ』か、そういえばさっき、荒野中に朗々たるいい声の「狼」の遠吠えが響いていたけど……」
「え、そうだったかな。まあ夜も遅いから早く中入りなさい」
丈吉はそそくさと家族を誘導しようとするが、ごまかし方が下手だな、丈吉は。
寝る前、丈吉が話してくれた。
しずは、那須のお社の神官に近い親戚だそうだ。お社の神官職とその血筋の者には、『力』のある者がたまに出ることがある。我のことを分かっている神官も多く存在していた。しずに『力』があるわけではないが、そういうことに興味を持っているようだ。
そういえば、以前、お社前の広場で神官の子どもや近くの子どもたちが良く遊んでいる時があった。大きくなるに連れて、来なくなったが、そうか、しずはあの中にいたのだな。
(ん、あれ、あの頃、かわいい子どもたちに調子にのって、犬の形して、一緒に遊んでやった……よな。あの中にしずが――成長して、面影が――あるな)
ということは、我がしずの子どもにおもちゃにされるのは……宿命か!
というか、それが宿命だというなら、那須のお社に文句を言いにいきたい!
次の日から三日間、我は子どものお守をすることとなった。
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