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ロウ2
那須野が原の開拓に関して特徴的なのは、華族による「華族農場」にあるだろう。
三島通庸の「肇耕社」、印南丈作・矢板武の「那須開墾社」などの結社農場もあるが、二度の首相経験があり日本銀行の創始者、松方正義の「松方農場」、西郷隆盛の従弟で、松方内閣で陸相を務めた大山巌と、同じく西郷隆盛の弟で、松方内閣で海相だった西郷従道の「加治屋開墾場」、松方内閣で外相だった青木周蔵の「青木農場」など、多くの華族農場が出現する。
松方内閣の大臣職経験者が多く、また薩摩藩出身者が多いと言える。
一言に「華族」と言っても、公家の堂上家に由来する堂上華族、江戸時代の大名家に由来する大名華族、国家への勲功により華族になった勲功華族など、いくつかの系統に分かれる。
明治維新に貢献し華族になり、初期の明治政府を支えた華族には元々薩長の下級武士も多い。
彼らから見た明治天皇とその周囲の堂上華族や皇族、逆に堂上華族や皇族から見た勲功華族との間に齟齬は無かっただろうか。その最後の行き場所が「華族農場」であったかも、とは穿ちすぎであろうか。
丈吉の妻のしずは、青木農場の主、青木子爵の別邸で女中をしていた。女中とは言っても、しずは宇都宮の女学校を出ており、青木邸の女主人――ドイツの貴族令嬢、エリザベート――に信頼され、那須にいる時の身の回りの世話や子供たちの養育、最近ではドイツ語も片言ながら習得したようで、エリザベートの通訳めいたこともしているらしい。
しずが青木邸にいる間は近くにする丈吉の叔母が子どもたちの面倒を見ていた。
丈吉の家に来てしばらくすると、朝、丈吉としずが出かけると、我の背に三人の子どもを乗せ、四・五件先の叔母の家まで子どもたちを連れて行き、夕方また背に乗せて帰ってくるのが、日課になってしまった。
(我、天狼王なんだがな……)とは思うが、犬も狼も人も未来に繋がる「子ども」は特別だ。いいのか、これで、と思わぬでもないが、子どもに纏わり着かれるのは嫌いではない。
そして、時々、丈吉の働いている農場へ行く。農場では害獣被害を防ぐため、特に牧畜を行っている場所では犬を飼っていた。最初行った時はなかなか楽しめたな。
殆どの犬が我を見て怯えている。当然だ、呪は人に対してだけ掛けたもので、他の生き物には我は正しく特別な狼と見えるはず。ただどこにも無鉄砲な奴はいるもので、
「おうおう、馬鹿でっかい狼がこんな所で何してる! とっとと、山に行きやがれ!」
三匹の犬が我を囲む。犬の中ではそれなりに力に自信があるのだろう。
一緒に来ていた丈吉が止める暇もなく、我は一瞬で、己の前足に風の力を纏わせ、三匹を吹き飛ばす。我の牙を使ってしまうと、重傷を負わせてしまう。飼い犬なので手加減はしてやった。
「しかたないな、ロウは。適当に手加減して仲良くやって欲しいよ」
丈吉は、苦笑いしながら、我の首を撫でる。
「ばぅっ」分かった、という意味で一声吠えた。
それ以降、農場へ来るため尻尾全開振り振りの犬たちだった。
昼に夜に農場の犬たちを使い、畑の作物、あるいは牛や山羊を狙ってくる、猪や鹿を狩るロウ。その大柄で怖そうな外見に怯え文句を言う人間もいたが、丈吉の腕白三人姉妹弟にもみくちゃにされても文句一つ言わず我慢の我に、徐々に「賢い犬」という評価をもらうようになった。
そう言われた時の丈吉の嬉しそうな顔が我は嬉しい。
ある日、
「ロウ、ちょっと散歩行こう」
丈吉はそう言うと我に首輪と綱を付ける。我は散歩が嫌いだ。散歩はこうして首輪と綱をつけられる。街中や人がいる所へ行くときに付けられてしまう。嫌がる我に、
「ごめんね、今日はちょっと特別、那須駅へ行って蒸気機関車を見に行こう」
(いや、別に我は蒸気機関車など見たいと思わないぞ)
関東平野全体が我の領域である。東京で遠巻きではあるが、蒸気機関車も見たことがある。
この前丈吉は三人の子どもを連れ、蒸気機関車を見に行った。帰ってきた子どもたちは、しばらく興奮して、騒がしかった。でも我は見たいと思っていない、がこういう時だけ我の気持ちは通じず、丈吉に引っ張られていく。
駅の目の前に見た蒸気機関車は、黒光りするちょっとした小山くらいありそうな巨体に、凄まじい熱気と吐く煙に化け物としか思えない。尻尾を丸めこみそうになるのを我慢するのがやっとである。
しかし、この蒸気機関車が大量の人と荷物を運ぶ。人の生活を「良くしたい」という欲は、技術進歩を惜しみなく発展させる。今ある自然の中で生きている生き物たちと違い人は自然を自分たちの都合の良いように変えていく。
駅からしばらく歩いて、烏ヶ森の山に登る。この烏ヶ森は遥か昔から小高い山になっており、多くの生き物が暮らす森になっていた。不毛な那須野が原の中ではロウたちにとってはいい狩場でもあった。最近は周辺に人が多くなり、狼たちはもっと北の高原地帯の森へと移動させている。
また、那須野が原を見下ろせる位置にあり、昔から那須に関する重要な打ち合わせが行われた場所でもある。
かつて、祖父テンの時代、源頼朝が那須野が原で巻き狩りを行った時にも、この烏ヶ森に頼朝が来ている。近い内、ここでは「那須疎水の起工式」なるものが行われる。あの多くの人が石や砂利を運び、水路を造っていた工事のことだ。
高台の広場には数人に男たちがいた。遠くには、先ほどの那須駅がみえる。森の下では多くの人たちが道路の普請を行い、開墾を行っている様子が見える。烏ヶ森から真っすぐの道が縦横等間隔に造られているのが分かる。そういえば皆が「碁盤の目のようだ」と言っていた。
男たちは、丈吉の叔父の印南と、同じ農場を共同経営している矢板、そして別の農場を経営している三島だった。丈吉は三島の農場で働いている。三島は那須から宇都宮一帯の栃木県令という仕事をしているそうだ。以前にはさらに北の福島県令であった。そしてどちらでも水を治め、土を動かした。「土木県令」と言われている。
自然と共に生きる狼からすると天敵かも知れないな、と思う。
「ここから見ると、あの巨体の機関車も小さいですな」
印南の声に同じく遠くの蒸気機関車を見つめていた三島が、
「ああ、だが、あの煙を吐きながら、南東北と東京を結び、走り抜ける様はみごとだな。これでこの那須野が原への人と物資の流れは加速するぞ」
「ただ、残念でしたね。鉄道路と駅の位置は大山さんや西郷さんの要望通りになってしまいました」
「国道の整備は、思い通りであったが、まあ、鉄道はな、大山さんの夫人が日本鉄道の社長の娘だから、しかたないであろう」
南東北から栃木にかけて、自分の思うように進めてきた三島だが、鉄道に関しては、大山巌や西郷従道ら明治維新の功労者であり政府の要職にいた華族の意見が通ることになり、彼らの農場の一部が寄付され那須駅が出来た。
「どちらにしても彼らが財をつぎ込んで、自らの農場を開墾してくれれば、この那須野が原が発展する、彼のような若い優秀な人々が増えていく、喜ばしいことだ、丈吉君、こっちだ」
三島は上がってきた丈吉に声を掛ける。叔父の印南は三島が丈吉を高く評価していることが嬉しそうだった。
丈吉と一緒に我が姿を見せると、三島が、
「その犬が今評判の丈吉の『ロウ』ですか、一声で狼を蹴散らし、猪や鹿を捕まえ、しかも『子守り』もするとか。賢い忠犬だと」
三島は我を撫でようとするが、するりと身を躱す。
この三人が、明治とう時代になってから、那須野が原の開拓に着手した大元の三人だ。住む場所を追われようとしている狼としては、撫でられるのはたまらない。唸り出さないだけましであると思ってもらいたい。
丈吉が、家族以外に懐かなくて、すみません、と謝っていたが、我、嫌なものはいやだし、丈吉とその家族以外に撫でられるのは断る。
その夜、我を呼ぶ狼の声が聞こえた。荒野へ行くと、いつも我と一族との連絡役になっている狼が慌てた様子でいた。
「王よ、申し訳ありません。北の川の上流周辺に住む者たちの一部が、人間の農場の牛を襲いました。二・三頭、食したようです。その際、駆け付けてきた人間が傷を負ったと……、聞いております」
一部の狼が不審な動きをするのを怪しんだ別の狼が後を付けて経緯を見ていたという。
(……最悪だな……)
「それで、そいつらは今どうしてる?」
「はい、知らせに私が駆け付け、王にお知らせしようと走りだすと、私を襲って来たので、一喝してやりましたら、さらに北の山の方で逃げて行きました。『牛を狩って食って何が悪い!』と叫んでいましたが……」
我の連絡役になっているこの狼は一族の中でも間違いなく強い者だ。その一喝で逃げているような若い――自分の牙は強い、と勘違いしているような――者たちか。
北の川沿いに住む群れは、都会から住む地を追われ流れてきた若い狼たちが中心になっていたはずだ。その分、長老や古老といった存在がなく、単独で勝手な行動を取りやすかった。
「確かあの群れには女子供が多かった記憶があるが……」
「はい、その子ども達のために食べるものが必要だと言い募り、王の命に背き、牛を狩ったようです。が実際には自分たちだけで食し、そのまま北へ逃走していきました」
「愚かなことを……、残った群れを移動する手配と、その農場と周辺の人の動きを注視せよ」
「畏まりました」
走り去っていく狼を見送り、丈吉の家に戻ると、我を探していたらしい丈吉がいた。
「どこに行ってた、『ロウ』 心配したよ」
(少々野暮用でな)
丈吉の前に座った我の顔を撫でながら、
「もしかしたら、他の狼から何か聞いたのかい?」
(狼が牛を襲った件か?)
「西郷さんの農場でね、牛だけでなく人も襲われたとかで――。実は明日西郷さんの農場付近の大掛かりな『狼狩り』をすることになった」
(狼狩り……か、まずいな)
「だから『ロウ』、あのあたりの狼たちに移動するよう……、出来るかな?」
(いいのか、丈吉はそんなこと言って)
「元々、狼たちの方がこの荒野に先に住んでいた。狼が獲物を狩って食べる……、当たり前のことだ。といって農場の家畜や人がおそわれるのは困る。でも襲われた人のケガも軽い程度なんだ。狼狩りをして一斉に駆除しようというのは……あまり賛成できなくてね」
丈吉に気遣いが嬉しい、尻尾が無意識に大きく揺れる。
「狼狩りは明日早朝からだ、可能なら捕まらないように、ただ農場の家畜を襲わないようにしてくれ」
我は、「分かった」というように一声吠えて、荒野へ飛び出して行く。すでに大分夜も深い、丈吉は早朝、と言った。子どもも多い群れだ、移動させるのにも時間がかかる。
襲った農場が遠くに見える所まで来た。我は気を張り巡り、周辺の狼の気を探る。農場から人の造った水路沿い、しばらく行くと川に合流し、川を北上している狼の集団を確認する。我に報告に来た狼もこの中にいるようだ。そちらに向け疾走する。
「王!」
疾走してきた我に気付いた配下の狼が声を上げる。十数匹の狼がいた。
「人が早朝から狼狩りをする。これで群れは全部か?」
狼狩りという言葉に、狼たちの声が騒がしくなる。
「そうですか、農場付近の人の動きが少々いつもと違う、という報告がありました。群れは二つに分け、子どもとその母、弱い者には私の群れの古老を付け、足跡を隠しながら、東の森向かいました。若い体力のあるこちらは、わざと足跡を残しながらここまで来ております」
この配下の狼とその群れは古くから代々天狼王に従ってきた一族だ。賢い者が常に一族を率いている。
「そうか、よく手配してくれた」
「はい、ただ一つ懸念が。この群れは若く、長老も古老もいないためか統率が取れておりませんでした。また長が牛を襲い、とっとと先に逃げております。まとめて移動するにあたり、時間もなかったことから、群れ全部を拾えたかどうか、はっきりしないしないのです」
「分かった、我が農場周辺をもう一度確認しよう。お前たちはこの後徐々に足跡を消しながら、もう少し北に向かい待機、狼狩りの様子を伺え」
「承知しました。王もお気をつけください。行くぞ」
川の浅瀬を渡り、北へ向かう狼たちを見送り、踵を返す。
農場付近に戻ってくる頃には、東の空から薄く白々しくなってきた。
パーン、パーン
数発の人の持つ銃の乾いた音がする。農場の南側、以前は荒野の中、疎らに灌木が立っていた辺りに人が木を植え、森を造ろうとしている場所だ。
我は風を作り出し、加速する。
飛び込んだそこには、二匹の横たわった狼をそれを囲む猟銃とたいまつを持つ数人の人だった。
(我が眷属を!!)
我の中を暴虐の嵐が荒れ狂う。
腹の中からどろどろと熱く煮えたぎる何かが喉へ競りあがって来る。大きく開けた口から、
ガッ、ウォ――ン、
一切の遠慮なしの咆哮を人に向ける。
「うわぁー、何だ、あ、あの狼、大きすぎるだろ」
「食われるぞー!」
あっと言う間に人たちが逃げている。その背中にさらに威嚇を籠め咆哮する。
本気で人を襲おうと思った。少なくともこの2匹を襲った人は全て殺してしまおうと……。
が、直前で丈吉やその子たちの顔が浮かぶ。
我は横たわる狼に近づく。我が来た時には既に命がなくなっていたのは分かった。このままにしては、いずれ人が来て、持ち帰り「剥製」とやらにされてしまうか。
横たわる狼に前足を掛け、我の力の源であろう神に祈る。
我の足先から「ポワァッ」と白い光が生じ、狼の体を包む。そして吸い込まれるように地に溶けていく。大地に還る時を少し早めた。不甲斐ない王ですまない。
その時、しばらく先の茂みの奥で何かの気配がする。
「キューン、キュン、キュン」
茂みの奥から出て来たのは、三匹の子狼だった。まだ生まれて二週間なるかならないか。そういえば撃たれた片方の狼は母狼だった。子をどこかに隠し、守ろうとしたか。
匂いが残っているのか、母狼がいたあたりで「キャン、キャン」泣いている。我が近づくと、怯えたように一旦後ろを下がるが、やはり狼が恋しいのだろう。我の側にやってくると腹に潜り込もうとする。乳をまさぐられるのは困るが。
確かに狼が先に人の家畜を襲い人にけがさせた。狼が二匹死に、母狼を亡くした子狼はこのままでは生きていくのは難しい。これで釣り合いが取れたということだろうか。
狼と人が双方とも同じ地で生きていくことは難しいのだろうか。
人がその生活する範囲を広げ、増えていくとともに、狼の生きる地は狭まっている。そしてそれに伴い代々の『天狼王』の持つ力も弱くなってきている。そう、テン以前であれば、王の命に逆らう一族はあり得なかった。
我に力ある内に、一族の行く末を決めなければならないのかも知れない。
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