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カンフーファイトの夜_サンプル
一.マスター・ロウガイ
「ではみなさんは、カンフーの皇神と呼ばれる御方がどこにおられるか、ご承知ですか」
先生は、胸の前に持ち上げた握り拳をもう片方の手で包みました。
カンファ・ネルが元気よく手を挙げました。
するとダムが決壊するように、それまで静かだった教室は我先にと手を挙げる生徒達の声でいっぱいになっていきます。
ところが先生は声を張り上げる生徒達に微笑みをくれるだけで、誰も指そうとしません。
やがて先生はゆっくりと視線を動かして、ある一点を見つめました。
「ジョー・バンジさん。あなたはわかっているのでしょう」
ジョーは両腕を組み、大きく息を吐きました。
けれどもそれっきりでした。なにかを仕方なく諦めてしまったような、切なくも清々しい顔をたたえるだけで、先生に言葉を返すことはありませんでした。
ジョーと小さい頃から仲のよろしくないザネ・リーの取り巻き達がクスクスと笑います。他にも憐れみや侮蔑といった感情を投げかけるクラスメイトもいます。教室にいるほとんどの人が、ジョーの本当の気持ちを知ろうとも理解しようともしませんでした。
しかしジョーはクラスメイトらの態度にも表情一つ変えることはありませんでした。
――ただひとり、申し訳なさそうに見つめるカンファにだけは、かすかな笑みを返します。
カンファ。君が毎日を自分らしく生きてくれれば、僕はそれで良いんだ。もう君のカンフーを邪魔する奴がいないだけで、僕はとても満足なんだ。だからそんな顔をしないでくれ。
先生はしばらく困った様子でクラスの喧騒に耳を傾けていましたが、眼をカンファに向けて、
「ではカンファさん」と呼びかけました。
あれだけ我先にと手をあげたカンファでしたが、ジョーへの気遣いからか、申し訳なさそうに席を立ち上がったきりなにも答えることはありませんでした。
先生は不思議そうにカンファとジョーを交互に見ていましたが、両手をパンと打ち合わせ、
「よし!」と言って、チョークを手に取り、黒板に銀河と八両編成の列車を描きました。
「これは海の向こうの国で名を馳せた科学者『ブルカニロ博士』が五十五年前に発表した“第ニ世界”の図です。ジョーさんそうでしょう」
ジョーは相変わらず言葉を返しませんでしたが、かすかな笑みを浮かべて小さくゆっくりとうなずくのでした。けれどもジョーの心中は闇夜に渦巻く水のようでした。
そりゃあ僕が知らないわけがない。そもそも僕だけじゃない。カンフーを心に宿す者は誰だって知っているのだ。僕は幼き日のいつかカンファと約束した。共にカンフーを極めて第二世界に行こうと約束した。
ジョーは幼き日の思い出に想いを馳せました。あの天気輪の柱がそびえる星見の丘でカンファとふたり、満点の夜空を眺めて語らったあの日のことを。
「ねえ、ジョー。私はいつかカンフーを世界に広める人になりたい」
「僕も同じだ。カンフーは人を優しくする」
「優しくするだけじゃない。大切な人を守る勇気も身につく。心が強くなる」
「うん。そうだね」
「うんと強くなって、自分のカンフーを極めたら……そうしたら第二世界に行けるかな」
「行けるさ。僕と一緒に行こう」
「うん。ジョー……君とならどこへだって行ける気がする」
そう。カンファだってカンフーを心に宿す者の一人。先生の問いの答えを知っているのだ。それなのに返事をしなかったのは、僕がもうカンフーをすることの出来ない身体だからだ。ザネにやられた左脚はもう激しく動かすことは出来ない。走ることも飛ぶことも出来ない。僕の右脚に一歩遅れて付いてくるのがやっとだ。
ジョーの脚は所謂、難治骨折というやつで、骨が変形して癒合してしまったために正常な動きが出来ませんでした。しかし彼の脚を治すことの出来る医者は一向に見つからず、事態は最悪なものから変わることはありませんでした。カンファはもう二度とカンフーが出来ないであろうジョーを気の毒に思って、返事をしなかったのだと考えると、自分と彼女の二人ともが同じくらい哀れなような気がするのでした。
先生はふうと息を吐き、黒板に指示棒を当てました。棒はちょうど八両編成の列車の上にありました。
「このぼんやりと白い銀河の上を走っているのは、第二世界に暮らす者達を運ぶ列車です。『銀河鉄道』と呼ばれています。ブルカニロ博士が仰るには、本当に良いことをした人しか乗れないそうです。この写真をごらんなさい」
先生は木の額縁を教卓の上に立てました。中に収められていたのは写真ではなく、一枚の新聞記事でした。
「これはブルカニロ博士が、第二世界の入り口――夢で出逢った『ジョバンニ』という少年と現実で再会を果たした時の記事です。それはもうとてつもなく話題になった事件ですので、散らしが沢山撒かれました。一人一枚用意してありますので、今から配ります。よくごらんなさい」
先生は右端に座る生徒らにビラを複数渡しました。やがてそれらのうちの一枚が、ジョーとカンファのもとにも回ってきます。ジョーがしげしげとビラを眺めますと、『ジョバンニ氏。今は亡き少年カンパネルラと第二世界での再会の意を表す』という見出しが目に留まりました。
ジョーはぐっと目を眇(すが)め、一つのことを考えました。
間違いなくカンファは第二世界へ行けるだろう。しかし僕も第二世界へ行くことが出来れば、再会出来るのだ。カンフーを極める以外の道で本当に良いことをすれば……行けるのだ。しかし今の僕には武以外の取り柄はない。今更いったい何を頑張れば良いというのか。
「よくごらんになりましたか? それでは改めて本題に入ります。この銀河の川を超えた先に、土星のような輪が三つ掛かった巨大な星がわかりますか」
先生はそういって、指示棒の頭を銀河の川の向こう岸へと持っていきました。ちょうど黒板の上部あたりです。そこには現実には存在しないはずの巨大な星がありました。
「ベテルギウスよりもひとまわり大きいこの星は、第二世界でのみ観測されている星の一つです。そこには我々が敬拝するカンフーの皇神『ロウガイ』が御座します。今でこそ神として崇められていますが、元々はただの人でした。彼もまたこの世から第二世界へと旅立ったカンフーマスターの一人なのです。現世で多大なるカンフーと徳を積んだからこそ、自分だけの星を得て、今の地位を確立したと言えましょう。
カンフーを心に宿す者はすべからく、彼の元へ赴き、手合わせすることを夢として抱きます。なぜなら真にカンフーを全うした者にしか彼の星へ行くことは出来ないからです」
先生はそこで一度言葉を切って、教室中に目を配りました。
「カンフーは今やこの国の精神であり、伝統であり、国技です。この中にも実に多くの方がカンフーと共にあると思います。既にご承知の通り、カンフーとは力ではありません。――カンフーとは己に驕ることなく、己を高め続ける鍛錬です。人として本当に良いことをするために必要な心と勇気を育む、生涯続く修行なのです。つまりは武術の心得がある方以外の皆さんもカンフーの心を持っていて良いということです。ここにいる皆さんがすべからく、第二世界へ旅立つ事が出来ると良いですね」
と、言い終えて、先生は教卓の上に置いていた手帳をパタンと閉じました。
「さて。授業はここまでといたします。今日は銀河のお祭りですから、第二世界との距離が最も近くなる日です。ロウガイも我々のいる世界を覗き見ていることでしょう。くれぐれも羽目を外してはしゃがないようにしてくださいね。第二世界へ行くための切符をもらえなくなるかもしれません。それと川に灯籠を流す際には、決して水には入らないこと。岸辺からそっと手をやって、灯籠だけを水の上に乗せるのですよ」
ジョーは一人、靴を履いて校舎の外へと出ました。
「ジョー。今日も仕事?」
この声は聞き間違いようもなく、カンファのものでした。振り返ると、彼女が下駄箱の前でなにか言いたげに佇んでいるのが目に入りました。
「いいや、今日は休みだよ」
「そう」
それっきり二人は黙ってしまいました。二人が会話をすることは数ヶ月ぶりのことで、なんだか心の隅がもぞもぞして仕方なかったのです。けれどもこのままもぞもぞしているのも決まりが悪かったので、ジョーは会話を続けることにしました。
「どうして?」
「あ、うん」
カンファはしばらくもじもじとしてから、気持ちを固めたように言いました。
「今日の銀河のお祭り、一緒に行かない?」
「えっ」
ジョーは思わず短く声を上げてしまいました。なぜならジョーもカンファと銀河のお祭りを一緒に回りたいと思っていたからです。しかしとある思いが黒い靄となって、ジョーの心に充満していきます。――結局、ジョーは辛そうに首を横に振りました。
「ごめん。一緒に行けそうにない」
「でも……今日は仕事ないんでしょう?」
「ああないよ。それでも一緒に行けそうにないんだ。ごめん」
「そう。じゃあもういいよ」
カンファはムッとした様子で、さっさと校舎の中へと消えてしまいました。
ジョーはカンフーが出来なくなってしまった自分をどうしてもカンファに見せたくありませんでした。きっと見せてしまえば、とてもみじめな思いをすると思ったからです。カンファも申し訳なさそうにするに違いありません。そうなると今度は、ジョーがもっともっと申し訳ない気持ちになるのです。
さあ。とっとと家に帰ってご飯を食べよう。
ジョーはむりやり気分を入れ替えて、家路につきました。
「おかえり。ジョー」
家では割烹着姿の母親が、ちょうど料理をしている最中でした。
「ただいま。お母さん。今日はなにを作っているの?」
「あなたの大好物ですよ」
「ハンバーグかな」
「正解です」
ジョーは母親とにっこり微笑み合いました。それから母親の後ろを通って一枚のガラス戸を横に引き、四畳半の部屋へと足を踏み入れますと、畳に寝転がって天井を見つめました。ただひたすらに木目を眺めていると、不思議と気分が落ち着くのでした。
母親が台所からこちらへと顔を向けます。
「銀河のお祭りには行かないの?」
「行かない」
ジョーはムッとして答えました。彼にとって今は最も触れられたくない話題です。消えかかっていた黒い靄が、また心の中を満たしていくのをジョーは確かに感じました。そんなことはつゆ知らず、母親は心配そうな顔をしました。
「そうなの? せっかくのお祭りなんですから、カンファさんとでも一緒に回ってきたらよろしいのに。そういえば最近あなたからカンファさんの話を聞きませんけれど、元気にしていますか?」
「元気だよ」
母親に悪気がないのはジョーもわかっていました。それでも心中を察して欲しいという気持ちが、ぐんぐん膨らむ風船のように大きくなっていきます。
ジョーの思うとおり、悪気のない母親は満面の笑みを浮かべて、
「それは良かった。また近いうちに家にお呼びなさい。精一杯ご馳走しますから」
「うん」
ジョーの気持ちは我慢の限界をむかえました。普段ならなんてことない風を装って、嬉しそうな嘘の笑顔を簡単に作ることが出来ましたが、先ほどカンファと想いのすれ違いをしたばかりの今のジョーにはそれをするのが難しかったのです。
「ごめん、外に出てくる」
ジョーは急いで立ち上がり、四畳半の部屋を出ると、母親に一度も顔を向けることなく、玄関へと向かいました。
靴を履くジョーの背中を母親が驚きと心配が混ざりあったような顔で見つめて、
「銀河のお祭りに行くのですか?」
「あー、うん。そう。ご飯も屋台で食べるからいらない」
「そうですか……わかりました。気を付けて行ってらっしゃい。川には近づいちゃいけませんよ」
「行ってきます」とジョーは言うなり、外への引き戸を少し乱暴に開けます。ジョーは最後まで母親に後ろ姿しか見せず、外へ出てすぐに玄関の扉を後ろ手で閉めてしまいました。
外に出ても胸に充満した黒い靄が晴れることはありません。むしろ自分のためにせっかく用意してくれた大好物のハンバーグを「いらない」の一言で無下にしてしまったことで、ぎゅうっと胸が苦しくなりました。
そうやって言ったら、母親が辛い思いをするのを分かっているのに……僕はなんてひどい奴なんだろう。カンファの話をされると、僕は辛いことにただ気付いてほしかっただけなのに。
二.アンタレス祭
ジョーは家を離れ、銀河のお祭りが行われている『天翔ける川』へと向かいました。
怪我をしてからジョーは人を避けるようになったため、心配してくれる友人も今では一人としていません。友人も恋人もいないジョーは誰を誘うこともなく一人、河川敷側の堤防に寝転がりました。河川敷といっても銀河のお祭りをしている『天翔橋』付近ではないので、ジョー以外の人間は誰一人としておらず、とても静かでした。聞こえてくるのは夏虫の歌声だけです。
堤防に生い茂る夏草が天に向かって悠々自適に伸びているので、寝転がったジョーの左右の視界は草に仕切られ、おのずと満天の星空が目一杯に広がりました。
「第二世界か」
そうやって無数の星の瞬きを見ながらなんとなく呟いてみますと、じわじわと不思議な気持ちに囚われました。これだけの星があって、僕はそのうちの一つの星に生きていて……そんなちっぽけな世界で身悶えるほどに苦しんでいるというのは、ほんとうにばからしいことだ。
ジョーは一本の草をちょこちょことよじ登るてんとう虫へと目を向けました。きっと先端に溜まる露を飲むためでしょう。
ちっぽけな僕より、もっともっとちっぽけなてんとう虫なのに、僕よりも真っ当に生きているように思える。今の僕は生きたいから生きているわけじゃない。ただ死なないように動いているだけだ。すなわちこの世に生きる目的がなにもない。生きることへの執着がほとんどない。僕はいったい……いつまでそうしているつもりなのだろう。
カンファと母親の辛そうな顔がジョーの脳裏に浮かびました。
僕がこうしているからカンファも、お母さんも辛いんだ。
ジョーは胸に芽生えた不思議な気持ちが、だんだんと熱いものへと変わっていくのが分かりました。
そうだよ。いつでも本当に良いことをしようとするのが大切だ。このままお母さんやカンファに辛い思いをさせてはいけない。このてんとう虫らしく生きるてんとう虫のように、僕も人らしく生きることを求める。
心の片隅にはまだ不安が渦巻いていました。しかしジョーはそれを隅の隅へと押し込んで、心の中をむりやり熱い気持ちでいっぱいにしました。
「そうと決まったら、カンファを探しに行こう」
もともと明朗快活なジョーはこうと決まったらすぐ行動に移す少年でした。左足を庇いながらも、軽快に立ち上がり、カンファを探し歩くことにしました。
カンファは家だろうか。いや彼女は僕よりも友人がとっても多いから、他の人と祭りに繰り出しているかもしれない。
ジョーはしばし考えた上、
「まずはカンファの家に向かってみよう」
彼女の家に行くことにしました。その場所はここから『天翔ける川』にかかる橋を渡った先――対岸の町の離れにある小高い丘の上にあります。通称『星見の丘』と呼ばれていて、研究者であるカンファの父が、星を調べるために家を建てたとジョーはカンファから聞いたことがありました。この町は世界各地に存在するという星との距離が近い土地の一つらしく、わざわざ北の方から引っ越してきたそうです。
『天翔橋』の周辺は欄干に取り付けられた無数の提灯の明かりで照らされ、暖かい色に包まれていました。外堤防を降りたところの通りは出店と沢山の人で埋めつくされていて、ジョーは橋に向かうまでに何度も人の波にさらわれ、もみくちゃにされました。
ジョーはやっとこさ橋のたもとまでたどり着きましたが、橋の上にも沢山の出店が道に沿って左右それぞれに並んでいて、人が沢山行き交っているのを見て、少したじろぎました。片足が不自由なジョーにとって、人込みに向かっていくというのはとても大変なことでした。しかしそれでも祭りに誘ってくれたことへの感謝と、断ってしまった謝罪と、本当は一緒に回りたかったのだという気持ちをカンファに伝えたいジョーは、両手で頬をぱちんと挟み、気合いを入れ直します。
「結局、一緒に回ってくれなくてもいい。大切なのは気持ちを伝えることだ」
さあ行くぞと、ジョーが右脚を踏み出した時でした。
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