記憶の匂い

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記憶の匂い

 大人になってわかった。  なぜ夏休みなのに僕と遊んでばかりだったのか。高校には友達も彼氏もいたはずだし、部活もやっていたはずだ。    どうして急にいなくなってしまったのか。両親含む大人達は何も教えてくれなかった。  最後に見た彼女、唯一覚えている首元の濃い化粧。あれは何だったのか。  全てがたった一つの事実に収束する。    彼女は自殺したんだ。    僕の前ではいつも、いつでも笑顔でいてくれた彼女は、自室で一人ゆっくりと病んでいた。    その事実に気づけなかった自分を悔いた。己を謝罪して責めて侮蔑して、死のうかと思った。  でもその刹那、あの匂いが僕の鼻に届いた。    うだる暑さの日々をひたすら遊んで過ごしていると、必ず隣から香っていた美味しい匂い。  横を振り返ったら、 「大丈夫。私が側にいるから」  涼しげな声が鼓膜を潤した。    失われた記憶のピースが復元され、暖かな表情と穏やかな眼差しが僕を柔和に抱きしめた。    枯れたはずの涙が滲み出た。  心はこれほど近くにいるのに、彼女の存在は遠く儚い。    でも彼女は僕が辛い時、苦しい時、困った時に物音一つ立てずに現れてはそっと支えてくれる。    丁寧に真心を込めて作られた、パンの匂いと一緒に。 
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