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美晴がうちの隣に引越してきたのは俺が五歳のとき。美晴と俺の姉貴、千里は九歳だった。
よく晴れた夏の、日射しが強い日だった。
暑い暑いと大騒ぎする俺と姉貴に、母親は庭にビニールプールを用意した。始めは冷たかった水が、遊んでいるうちにどんどんぬるく、柔らかくなっていく。丸みを帯びた水がまとわりつく感触が楽しくて、俺も姉貴もはしゃいでいた。
どれだけ長く水に潜っていられるか競争しよう、と言い出したのは姉貴だった。大抵、こういうことの言い出しっぺは姉貴だ。
三時のおやつを賭けることにした。親戚のおばさんからもらった「こうきゅう」なアイスクリーム。
せーの、という姉貴の掛け声で、ぎゅっと目を閉じてプールにもぐる。
水が全身にまとわりついて、ぐらぐらと揺れた。ごぉぉと低い音は体の中から、ちゃぷんちゃぷんと水のはねる音は遠くから聞こえる。
鼻や口から丸い空気の玉が漏れて、水面へと上っていく。その感触がくすぐったくて、思わず笑ってしまった。ごぼっと大量の泡が立ち上る。息が苦しくなって、心臓がばくばく音を立てた。
姉貴はまだ顔を上げていないような気がしたけれど、もう限界だった。俺は、酸素を求めて勢いよく水面から飛び出した。
水しぶきに日射しが反射してキラキラと輝く。そのキラキラの向こうに、知らない女の子がいた。白と青のストライプのワンピースに麦わら帽子で、突然飛び出した俺に驚いたのか、目をぱちくりさせている。
「だぁれ?」
俺に続いて顔を上げた姉貴の呑気な声に、その女の子は慌てて「美晴」と名乗った。
「今日、隣に引っ越してきたの。でも、私がいても邪魔だからすることがなくって。勝手に入ってきてごめんなさい。楽しそうな声が聞こえたから、つい」
俺たちの声を聞きつけた母親がやって来て「あらあら可愛いお客さんだこと」と、美晴を迎え入れた。結局「こうきゅう」なアイスクリームは三人で分けることになった。
同じ歳の姉貴と美晴はすぐに仲良くなって、ちーちゃん、みーちゃんと呼び合うようになった。
「弟はね、一哉」
「じゃあ、かずくんだね」
美晴はそう言って笑った。だけど、俺は笑えなかった。心臓がずっとドキドキしていたから。
「可愛くないでしょー、こいつ」
「そんなことないよ。ね、かずくん」
あのとき、息を吸おうと思ったんだ。思い切り。まるで世界を丸ごと飲み込んでしまうみたいに。でも、あのキラキラの向こうに美晴を見つけた瞬間、息が止まった。吸い込んだ空気は俺の中から出ていけなくなった。だから、心臓のドキドキが止らないんだと思った。
バニラのべたべたした甘いにおいが、いつまでも口の中に残るように。
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