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「じっとして」
静かに、けれど有無を言わさぬ口調でそう告げると、新城は隣に立つ私に手を伸ばしてきた。
次の瞬間、包み込むように深く抱きしめられる。
「動いたら、お仕置きだから」
耳元に、まるで秘密を囁くように彼は言った。
そして首筋に顔を埋め、唇を這わせてくる。
「やめてください。こんなところで」
慌てて、私は言った。
ここは、M市の中心部から、車で20分ほどの場所にある堤防の上。
「たまには夕日でも見ようか」
そう彼に誘われ、ふたりはここに上った。
広く、緩やかに流れる川の向こうには、高く連なる山並みが見渡せる。いままさに稜線の向こうに沈もうとする夕日は、澄んだ初秋の空気の中、目眩く輝きを撒き散らし、山影を城壁のように黒く塗りつぶしている。
周囲に人影はない。
それを当て込んでここを選んだのだから、当たり前と言えば当たり前のことだ。
この地域の中核都市であるM市であっても、ほんの少し郊外に車を走らせれば、このような場所はざらにある。
もっとも、人気がないとはいえ誰も来ないとは限らないし、川の向こう岸には大きな道路が走っていて、今も何台もの車が走っている。川幅は広く、顔は見分けられなくても、ふたりの様子くらいは走る車からでもわかるだろう。
この日、彼、新城蒼と私、高坂由葵は、この堤防のすぐ下の空き地で、車で落ち合うことにしていた。
待ち合わせにこんな場所を選んだのは、もちろん人目を忍んでのことだ。
私たちふたりは、地元の国立大学医学部に勤務している。
ただ、勤務先こそ同じでも、准教授である新城と一介の病棟看護師の私では、その立場には雲泥といっていいほどの隔たりがある。
昨年春、大学が鳴り物入りで新設した先端医学研究センターに准教授として招かれた新城は、今まだ32歳。彼の若さでの准教授就任は国内トップクラスの快挙だったらしい。世界的にも注目される研究実績を評価されての抜擢は、再生医療界の新星としてマスコミにも取り上げられた。まさに、学部の看板ともいえる存在なのだ。
そんな新城が私に声を掛けてきたのは、今年の冬、大雪の降った日のことだった。
◇◇◇
「スカッシュ、やるんだ」
ナースステーションでひとりパソコンに向かう私に、通りかかった彼が声を掛けてきた。
はいと私は頷いた。
中高とソフトテニスをしていた私は、運動不足解消にと通い始めたスポーツクラブで、不定期にスカッシュのレッスンを受けていた。
「先生もですよね?」
マウスを動かす手を休め、見上げて言った。
私が通うスポーツクラブには三面のスカッシュコートがある。レッスンを終えた後に、他のコートでゲームをする新城を目にしたことがあったからだ。遊び程度にラケットを振る私とは違い、彼のコートからは激しく打ち合うボールの音が響いていた。
彼もまた、コートにいる私を見かけたのだろう。ただ、まともに言葉を交わしたことのない私なんかに気づいてくれていたことには、多少の驚きがあった。
私の問いに新城は頷いた。そして言った。
「なら、今度ゲームをしよう」
私は首を竦めた。
「無理ですよ。先生と同じコートに入れるほど上手くはないですから」
「構わないさ」
軽く笑うと、約束だからなと言い残し、彼は去っていった。
あの時はただの冗談だと思っていた。
院内に同じ競技をする子がいることを知って、気まぐれに声をかけただけだろうと。
それが、この会話がもとで、同じコートどころか、やがて同じベッドに入る関係になろうとは思いもしなかった。
それも、まさかこんな形で。
◆◆◆
「やめてください」
新城は、口もとで髪を押しのけ、肩口から耳たぶにかけて舌を這わせてきた。
背中に回された掌がワンピースの上から尻を撫で回している。
五指で掴むように揉みしだかれると、その荒々しい動きに、熱いものが滲むのを感じた。
「ここでは嫌です。やめ……んっ……」
黙りなよとばかりに、彼は、唇で唇を塞いだ。
間を割って舌が滑り込んでくる。
私と新城、いまのふたりの関係はセフレだ。
人目につかない場所で落ち合い、彼の車でホテルに向かう。そして体を重ね合う。ただそれだけの関係。
それは、初めて体を重ねたあの夜から、ずっと今日まで続いている。
◇◇◇
「私、誰にも言いませんから」
彼と話をするようになって三ヶ月。
初めて抱かれてすぐのベッドで、私は彼にそう告げた。
「何を?」
「今夜、先生とこうなったことをです」
それはたぶん、自分自身のための予防線だった。
そのころの私は、三年つき合った恋人といろいろあって別れた直後で男の心を信じられない時期だったし、新城ほどのエリートが、私なんかをまともに相手にしてくれるとは思っていなかった。
彼の誘いに乗ったのは、ただ温もりが欲しかっただけ。変な勘違いをしてまた傷つくくらいなら、早めにブレーキを踏んでおきたいと思ったのだ。
「ずいぶん物わかりがいいんだな」
隣に横たわった新城が言った。
「そんなことはありませんけど、これからも院内で顔を合わせるわけですし、はっきりお伝えしておいた方がいいと思いまして」
「俺が、君という女性に惹かれて誘ったとは思わないのかい?」
「私、そこまでの自信家じゃないんです」
冷めた口調で言うと、
「素直じゃないな」
彼は小さく鼻で笑った。
「どういう意味ですか?」
声を硬くして言った。
見透かしたような言い方が気に障った。
「悪い。ただ、どうしてそんなふうに考えるのかと思ったからね」
「考えますよ。これが普通だと思います」
「ふぅん、なら、遊びとわかっていながら抱かれたってことか」
「そういう気分の時だってあります」
「そんな感じの子じゃないと思ったけどな」
その言葉は、さらに私を苛立たせた。
それはたぶん、新城だけでなく、私を知る人たち皆にとっての私の評価だ。その皆には、別れた恋人も含まれている。
でも、私は、そんな分かりやすい女じゃない。
「あなたに、私の何がわかるっていうんですか?」
顔を背けて言うと、反応がなかった。
不快な顔をしてるのだろうと思った。
まだ体の奥に行為の余韻が残っている。そんなベッドでする会話じゃないことは分かっていた。
ただ、その余韻の大きさと甘さが、逆にあんな言葉を言わせたのだと思う。
それに身を任せて彼に縋れば、そのまま戻れずに流されていく予感がしたから。
「幻滅されました?」
ポツリと言った。
それならそれで構わない。
しかし、新城の返答は予想外のものだった。
「いや、むしろ気に入った」
「からかうのはやめてください」
不快を滲ませて言った。
意味が分からない。
すると、彼は身を起こし、私に覆い被さってきた。有無を言わせぬ感じで、一方的に唇を重ねてくる。一回目の行為とは全然違う、荒々しい口づけだった。
唇を剥がして、彼は言った。
「正直に言えば、君を、ただ無性に抱いてみたいと思った。だから誘ったんだ。その気持ちがどこから来るのかを確かめたかった」
彼の意図がわからず、覆い被さったその顔を、私は何も言わずに見つめていた。
「でも、抱いてみて分かった。俺は君に惹かれてる。つき合ってみないか?俺の直感では、体の相性は悪くないと思う」
「そんな、自分勝手な……」
私が答えようとすると、構わず彼は胸に唇を落としてきた。
まだ敏感になったままの先端を、唇が捕らえる。
「ぁッ、ちょっ、先生ッ」
私が大きく身動ぐと、
「答えはこれのあとでいい。今夜はしたい気分なんだろ?もう一度抱いてやるよ」
唇を離して言ったあと、ふたたびそこにしゃぶりついてくる。
「ぁ……」
まだスイッチの切れていない体は、容易に溶け始める。
私は切なく身を仰け反らせた。
その夜の二度目は、一度目よりもずっと激しく情熱的なセックスだった。
彼は、私がこれまで求められたことのないような体位を求めてきた。
そして私は、初めて、行為の最中に我を忘れて声をあげた。
彼の直感はたぶん間違っていない。
そう思った。
◆◆◆
夕日が残した空の赤は、深い青へと変わりつつあった。
川向こうを走る車にも、ヘッドライトが灯り始めている。
「ん、ふ……」
堤防の手すりに手を添えた私は、背後から抱きしめられながら、振り返るように首を回してキスを受け止めていた。
ワンピースの前ボタンは外され、ずらされたインナーの下から括り出された膨らみに、湿り気を含んだ川縁の風が触れる。
硬く立ち上がったその先端を、意地の悪い彼の指が、摘み、転がし、捩る。
やがて彼は、ワンピースの裾をたくし上げ始めた。
「ダメです。こんな所で」
思わず唇を剥がし、手に手を添えて抗った。
一度はされるがまま、胸への愛撫に身を任せていた私だったが、それ以上は想定外だった。
いったい彼は、こんな場所で、どこまでの行為に及ぼうというのだろう。
「嫌なら、やめるかい?」
言われて手を止めた。
ここで私が嫌だと言ったら、この人はどうするのだろう。そう思うと何も言えなかった。
いつもそうだ。彼はこの言葉を使って、私を堕落させていく。
一度止まった新城の指が、ふたたび裾をたくし上げはじめた。
◇◇◇
「ならこうしよう」
あの夜、
二度目の行為のあと、首を縦に振らない私に彼は言った。
「俺たちは今日からセフレになる。ふたりがしたいときに会って、したいだけすればいい。そして、君が俺に飽きたとか、嫌気がさしたならいつでも終わりにする。その時は君の勝ちだ」
「勝ち?」
「ああ、君の勝ち。一方で君が俺を受け入れ、ふたりが恋人になるようなら俺の勝ち」
「なんなんですかそれ?」
眉を顰めた。
「嫌かい?」
「そんなバカげた話に、私が乗るとでも思ってるんですか?」
「嫌なら乗らなきゃいい。その時も君の勝ちだ」
「そんな勝ち負けに、何か意味があるんですか?」
「なら逆に聞くが、スカッシュのゲームの勝ち負けになら、何か意味があるのか?」
私は一瞬口を閉ざした。
詭弁だと思った。それとこれとは話が違う。でもなぜか、口には出せなかった。
彼は黙って答えを待っている。
ふたたび、私は言った。
「なら、もし、先生が私に飽きたら?」
「その時は、君の勝ちでいい。ただ、なぜかな、俺は負ける気がしない」
「自分に惚れないわけがないってことですか?ずいぶんな自信ですね」
「ちょっと違うけどな。そう思うならそれでもいい。ま、すぐに答えを出さなくていい。ゆっくり考えなよ」
そう言われて、その夜は終わった。
二週間後、彼からメールの着信が入った。
次の逢瀬を求める内容だった。
ゆっくり考えなよと言ったくせに。
まるで、私が来ることなど当たり前のことのように。
そして三日後、私はふたたび彼に抱かれた。
◆◆◆
秋の河原には、高低さまざまな虫の音が入り乱れていた。
夜の闇に溶け込んでいく山並みの手前を、車のヘッドライトが幾筋も流れていく。
「ぁ、ゃッ」
うっすらと開いた瞳の向こうに、秋草がそよぐ夜の河原を見つめながら、しかし、私の意識のすべては、ショーツの中に潜り込んだ彼の指の動きに集約されていた。
「ぁ、そこ、だめ」
切なく喘ぐ声が、風にさらわれて消える。
虫たちの音色に紛れて、明らかに、私の立てた水音が耳に触れた。
指の動きに合わせて荒く高まりゆく吐息が、すぐそこに迫った頂きを教える。
「由葵……」
新城が耳元で呼んだ。
彼が私を名前で呼ぶのは、私が佳境を迎えようとするほんの一瞬だけだ。
「蒼……」
そして、私が彼の名を呼ぶのも。
仰け反る体を彼にあずけ、切なく身を震わせ、静かに、私はこの夜一度目の頂きに達した。
きっと、もうすでに、私の負けは決まっている。
いまはもう彼のいない世界なんて考えられない。
あとは、どこで、どんな形でそれを認めるかだけだ。
ただ、これほどまでに危うく、歪んだ、けれど甘美で、切ない、今のふたりの関係を手放すことには躊躇いもあった。
そしてそんな私を、たぶん、新城もわかっている。
ぐったりとした私の体を支えながら、彼はショーツを引き下ろそうとしている。
「だめ、もうこれ以上は」
慌ててその手を掴んで、引き剥がそうとした。
すると彼は、私の耳に口もとを寄せた。
「嫌なら、やめるかい?」
私がやめてと言えば、彼は終わりにするだろう。
きっと、私と彼とのすべてを。
それが私たちふたりのルールだから。
それが嫌なら認めるしかない。
私が、自分の負けを。
でも今は、
もう少しだけ、
すっかり闇に包まれた川のほとりで、
冷たい手すりに腰をあずけ、
向かい合わせに片足を抱えられた姿勢で、
彼を受け入れながら、私はそんなことを考えていた。
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