28人が本棚に入れています
本棚に追加
空の庭 2
空の庭 2
伸(のぶ)は、その娘の顔を長い事、まじまじと眺めていた。
風呂に入ったばかりというのに、血の気の失せた紙のように白い顔色に、やけにつやつやと赤い唇が目立つ。適当にかきあわせただけの浴衣の合わせ、切れ込みに伸は無意識に視線を落とした。
全く同じ部品では無いし、本人で無い事は、判りきっていたが、それにしても良く似ている。
お前が言っていたのは、この子の事だったんだな。
お前が、俺達を引き合わせてくれたんだな。
伸は、今はもう居ない哀れな人形に問い掛けた。
娘はのぼせたか、貧血でも起こしたかして男湯の脱衣所でひっくり返ってしまい、たまたまその場に居合わせた伸は仰天した。こんな夜半に一人で間違えて男湯に入ってるなんてうっかりちゃんだな。
伸は苦笑し、このまま置いておくわけにもいかないので、自分の入浴を諦めて番頭に声をかけに行くとする。
「お嬢ちゃん、大丈夫か。もうちっと待ってな。部屋聞いてくるから」
「……」
娘は答えるのも難儀そうで、僅かに首を横に振った。平らな胸に耳を当て、呼吸は普通にできていると確認する。手首を取り、ふいにその顔を見上げた所で、伸は思考が止まってしまった。
その娘の、明るい肩にかかる髪、全体に小柄な身体付き、強く握れば折れてしまいそうな細い手首、全て伸の記憶に残る一人の娘に良く似て居たからだ。
伸は大いに動揺した。この歳でここまで狼狽したのは久方振りだ。震える指で、濡れて額に張り付いた髪をおずおずと寄せてやり、とにかく部屋へ帰してやろうと慌てて番頭に駆けて行く。
高原は由緒ある温泉街で、雪が溶け下界に繋がる道路の封鎖が解かれると、街中に観光客が溢れる。
その温泉街の広場より一段高い、尤も高貴な旅館の女将の回診に伸は来ていた。女将の子供がもうすぐ産まれるので、雪道を歩かせるのは危ないからと伸が旅館に出向き、代わりに食事や風呂を賄ってもらうのが毎日の決まり事になりつつあった。
食事を採り、帰り際に風呂に入る矢先の出来事だったのだ。
「ああ、その娘さんなら鷹見の間だから、連れてってやって。あんな綺麗な娘さんがこんな田舎に一人で来るなんて、自殺志願か湯治かどっちかしかないって、皆で言ってたの。きっと不治の病だと言われて途方に暮れて来たんだよ。先生面倒看てあげて」
「じゃあ、俺が部屋まで連れてくな。その腹じゃお前が居てもどうにもならんだろうし」
女将の西瓜を入れたような腹を伸は眺めた。
ゆるい帯の着物姿で長椅子に寝そべって寝仕度をしていた女将は、
「泊まっていったら?」
「何言ってんだよお前いきなりよ」
「いや、だって先生、真っ赤だから。のぼせたの?」
と伸をからかった。
「可愛かったもんねえ、あのお客さん。診察とか言って変な事すんじゃないよ」
++++++++++
「……しっかし、良く似てる」
抱きかかえてきた娘を部屋に横たえ、戸袋から布団を引き出した。出会ったばかりの娘を連れ込んでいかがわしい仕度をしているようで、バツの悪さを感じながら娘の持ち物らしいトランクと筒状の入れ物に目をやった。
何か穏やかでない気配が漂っている。夜逃げでもしてきたのだろうか。
伸は、こんな間の悪い時には目覚めないでおくれ、とヒヤヒヤしながら娘を再び抱き布団に移した。温かくて柔らかい。体温が浴衣越しに伸の腕に伝わってくるのを、奇妙な胸の痛みと共に感じる。娘は嘘みたいに軽かった。
布団を掛けてやると、やっと密かに一息つく。
もしかして、のぼせたのでは無く、俺の邪気にあてられたのかもしれない。
普段、人間に対してはうまく隠しているけれど、この娘が、もし、あの子の言った娘なら、自分の抑え切れず滲み出る禍々しい気配に意識が麻痺してしまったのかもしれない。
こいつは悪い事をしたなあ。第一印象は最悪だ。
伸はやれやれと側に座り込み、娘の顔を再び見詰めた。先程よりは顔色も戻ってきていた。伸は、娘が目覚めたら、瞳の色を覗いてみたかった。
けれど、こんなしょぼくれた自分を、どんな視線で見られるかと思うと、このまま出て行った方が良いと考え直した。それにこの娘は、伸が何やら邪悪な気を発したと気付いたかもしれない。余計に、自分が側に居てはいけないと考える。
娘の冷えきってしまっている髪を乾かしてやりたいのだが、今の伸にはどうにも出来ない。
最初のコメントを投稿しよう!