空の庭 1

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空の庭 1

空の庭 1 たかは今、唯一の持ち物であるトランクを引き摺って山道を歩いていた。 もうかれこれ三日程、いつ果てが見えるのか判らない長い旅路を歩いていて、このままいくと永遠に目的地には辿り着けない事態も考えられた。もしかして、おれは今遭難しているのだろうか。 たかは立ち止まり既に何度目だか忘れたが、暮れかけた空と先の見えない道の消失点をながむる。そして重い溜め息をひとつついた。 こんな田舎に、本当にあんな大物がいるのだろうか。情報に踊らされたのかもしれない。だとしたら、いよいよ自分も店仕舞いだろうな。風がたかの着ている翡翠のような濃い緑の外套の裾を翻した。それはたかの小柄な身体の線に添う、質の良い滑らかな生地で、たかはとても気に入っている。 ただでさえ名残り雪の中を危うい足取りで進んでいるのに、風も陽の陰りの冷たさをはらんできていて、これは早く目的の高原へ辿り着くか、今夜も別の寝場所を見付けなければ、とたかを焦らせた。再び歩を進めるが、たかの足取りは重くもあった。本当に、無事仕事ができると良いのだけど。 けれど、たかの諦めに反して、ゆるい坂を越えると、眼下にようやく目指していた温泉場の街の明かりがまばらに見え始めた。 「やたっ」 道路も、申し訳程度に雪が両脇に掃き付けてあっただけだったのが、舗装された面までしっかり雪が除いてあり、幅自体も段々広くなってきた。周りに小さな土産物屋やバス停なども出てきた。 たかはしばし、ここまでの苦しい道中を思い出しながら恨みの籠った瞳でバス停を眺めたのち、肩にかけていた筒状の荷物を背負い直すと渾身の力を込めてトランクを押した。 夕闇の訪れる前に、一軒の旅館に飛び込んだ。 大荷物の娘が一人突然やって来て泊めてもらえるのか不安はあったが、田舎だからか観光地だからか、番頭の男は特に不思議に思った様子もなくたかを案内してくれた。 「別に自殺志願者とかではありません」と表現するためにたかは番頭とのやりとりは努めて明るい受け答えを心掛けた。第一、自分は自殺志願者ではなく、殺人者なのだけれども。 ++++++++++ 通された部屋は、一人では広過ぎる程で、足を踏み入れるとほんわかと温かさに包まれた。明かりのせいか雰囲気自体もとても優しい、純和風の落ち着く空間だ。たかはトランクと筒状の荷物を隅に置くと、他にする事が無くなってしまった。 手持ち無沙汰で部屋の中を色々見て回り、しばらく窓から見える街の明かりや温泉の流れる広場みたいな景色を眺めた。既に夜だったが、広場は多くの明かりに照らされて、遠くからでもそこが賑わっているのが判った。たかも、仕事をする前にさっと観光じみた事でもしておこうかななどと呑気に思った。 そう、明日あたり。仕事を終いにしたらすぐにここを出なくてはならないから。 部屋に運んでもらった夕食を済ます。食事は珍しいものばかりで色とりどりであったが、どんなものを使っているのかとか、どんな風に調理をしているのかなどはたかには興味が無かった。恐らく自分にはそういった類の事は必要無い知識だろう。せっかくだから温泉に入りたかったが、時間が早過ぎた。 たかの今回の相手は、高原の温泉場に住み着いたヒトガタという、動物が永く永く、それはもう途方もなく永く生きて化けた妖怪だった。 別に土地の住人に被害が出た訳ではないけれど、そんな大きな魔力を持つモノ達はどれだけ隠し立てした所で、裏世界で噂がたつものだ。賞金稼ぎや殺し屋、祈祷師達は誰も恐れをなし、筋金入りの田舎だという事もあってこんな辺境までは殴り込みに来て居ないらしかったが、たかは迷わずこの田舎へ来る事を決めた。 世の中若さが全てだとは言わないが、この殺し屋業界も年々若手の台頭が激しくなってきた。 たかはまだまだ引退する気は無かったが、生憎たかの評価は勝手に世界に決められてしまうらしい。世知辛い事だ。 たかはそんな世界に憤り、いまだここに自分が居るという事を知らしめたかった。その為に、このヒトガタを殺す。そうしなければ、まだまだ殺し屋として生きなくては、自分は再び、愛玩用として、人形として生きなくてはならない。それだけは嫌だった。 たかは力強く自分の背負ってきた細長い荷物を睨み付けた。夜も更けて他の泊まり客と出くわさない頃あいを見計らって外へ出る。風呂に入らなくては眠れないという程では無かったが、普段入れない広い風呂には興味が引かれた。 夜半を狙ったのは、もちろん殺し屋であるためにあまり多くの人間に顔を晒したくないという思いもあったが、何より自分の身体付きの事もあった。 たかは普通の人間のような性別が無い。人間では無いからだ。 しかし、どちらかと言えば娘で通るような外見ではあるので、心持ちは猛々しい荒さがあったが、大人しくしていれば娘と誤魔化す事は出来た。 しかし、おいそれと女湯に入る事も出来ない理由があるにはあった。たかの左の二の腕には、以前たかを見世物として飼い、慰み物として乱暴に扱った男達の中の一人が付けた刺青が残っていたからだ。 大きな十字架の上に、旗印のような横に流れる紋様があるそれは、ただ一箇所のみの、さして目立つものでは無かったので、注意される程では無いと判ってはいたが、他の女達を無闇に怖がらせても困る。 たかは生まれも過去も悲惨だったが、もちろんその男達は一人残さず斬ってきたし、どうにもならんもんはならん。とたかは理解していた。いわばこの刺青がありながら今自由な自分は勝利者なのだ。たかはそう自負していた。 今の殺し屋としての仕事も、生に執着の無い自分には向いている。だから、殺し屋としての寿命が来ていると言われるのだけは嫌だった。 たかに執着心があるとすれば、殺人のみにあると言っていい、それがたかに安堵を、安定を、自由を、誇りをもたらすからだ。 たかは迷ったが結局男湯ののれんをくぐった。案の定、誰もいない。 たかは安心して羽を伸ばした。しんと静まり返っている中、新しく湧き出ている湯が流れ落ち柔らかく溜まり湯を叩いている。その音色は耳にも心地よい。 身体を洗い、温かさに眠くなってまどろんでいると、瞬間、明るい脱衣所の方角からとてつもない風が吹き荒れた。 「?」 たかは、はっと覚醒し即座に振り返った。 吹き荒れたのは風ではなく気配だ。 実際の景色では何かが倒れたりなどしていないのでそれが判った。たかはそろそろと立ち上がり、ここに来たのは間違いだったと悟った。根こそぎ奪い尽くすような邪悪な気配に湯の中に居ながら震え上がり、眩暈を起こしかける。 まさか、こんな所で出会うのか? 向こうはおれが来た事など知らないはずだ。 いや、しかし何らかの手段で、自分達を殺しに来たモノを察知する事が出来るのかもしれない。たかは脱衣所まで取って返しどうにか浴衣をあわせると、 「うわ!」 ここまであの、筒を持って来るのを忘れているのに気付いた。だん、と勢い良く格子状の脱衣棚を拳で叩く。 やっぱり、自分では平然としているつもりだったが、観光地に来て浮かれてしまっていたのだ。馬鹿だ。たかは、先程から目の前に銀色の粉が飛んでいるのは何故だろうと思う。 「あれっ?おっちゃん、間違えたかな?」 後ろに、いつの間にか男が立っていた。男は慌てていて、 「男湯だよな?お嬢ちゃん、さては間違って入ってたなあ?」 とたかに確認をとっているようだったが、たかは返事が出来なかった。 落ち着いているが陽気で、とぼけた感じのする声の男は、たかが首だけでそちらを見ると、反対側の棚を向いて何故か銃を突き付けられた人間のように両手を開いて肩まであげていた。 「おっちゃんなんも見てないから早く出なさーい」 「……」 人間達は反応しないし、本人もうまく隠しているつもりなのだろうが、殺伐とした世界に身を投じていたたかには判る。この、今自分に背を向けて弁明している男が、 あの、八つの山と河を瞬時に飛び越え、 八つの大国を焼き尽くし滅ぼした、 大陸でも止める軍無しと忌まれた大妖。 自分は今のうちに逃げた方が良いのではないのかとたかは思った。同じ位、今ここで大妖が油断している間にどうにか殺してしまえないかとも思った。あるいは部屋まで戻り持って来て斬りかかれば良い。自分の武器で。 けれど、そのどれももう無理な選択のようだった。 たかは邪悪な気配にあてられ、半分程朦朧としながら男の後ろ姿を眺めた。 見上げる程背が高く、その広く背中や厚い身体付きからも只者ではない圧力が見え隠れしていた。手足が長く、開かれた掌も目立って大きかった。 あんな掌で腕や足を掴まれたら、簡単に折られてしまうだろう。むしりとられるかもしれない。たかは棚に背中をぶつけ、そのまま床に座り込んだ。 たかの気配にか、男が振り返る。 胡麻髭の渋い男だ、とたかは思ったが、そのまま瞳を閉じた。顔付きは怖いとは感じなかった。 途中で男が何事かたかに問い掛け、たかの二の腕に触れたが、たかはうまく聞き取れなかった。
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