行かないで、と貴方は泣いた。

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 ***  悟志(さとし)と付き合い始めたのは、私達が高校生の頃だ。  同じ高校の、一年と三年。彼が後輩で、私が先輩。身長こそ高かったものの、顔立ちが幼くて人懐っこい彼は、いわば吹奏楽部のアイドル的存在だった。このテの部活は基本的に女子の方が圧倒的多数と相場が決まっている。実際私達の学校もその例に漏れず、女子三十八人に対して男子は僅か七人ほどしかいなかった。  圧倒的女子率の部活動に乗り込む度胸がある男子は、よほど肝が座っているか音楽への情熱があるかのどちらかであろう。彼は後者の人間だった。小学校からブラスバンドに所属していたという彼のトランペットの腕は、ベテランの三年生達からも思わず歓声が上がるほど見事なものだったのである。 『俺には、音楽しかないですから。音楽をやってる時だけは、自分ではない自分になれるような気がするんです』  その言葉通り、彼は誰よりも才能がありながら、誰よりも熱心に練習を重ねた。家の環境の問題で、楽器を持ち帰っての練習などは全然できない様子だったが。その代わり、朝練は誰より早い時間から毎日練習しているのを見かけたものである。  大会で金賞を取るため、顧問の先生が持ってきたとんでもなく難しい一曲。特にハードルが高いとされたのが、壊れているとしか思えないテンポで突っ走るトランペットのソロパートである。それも、かなり高い音を出さなければいけないので、普通の生徒ならば音を出すことさえも非常に困難な箇所。しかし、それをまだ一年生だった悟志に任せることに、異論のある者は一人もいなかった。――同じトランペットパートの先輩である、私も含めて。  正直なところ、彼が入ってきた時には悔しさもあったのである。確かに自分は高校生から吹奏楽を始めたし、経験値という意味では彼より圧倒的に短かったけれど。いつかソロを任されたい、パートリーダーとして華やかなポジションをやってみたいという気持ちが無かったことは否定できないのだ。それなのに、入ったばかりの新入生に、入る前から追い抜かれていたのである。自分が築き上げたものが、全部ガラガラと崩れていくような気になったのも、無理のないことではあっただろう。  だが、悔しくて、彼に負けない奏者になりたくて練習を重ねれば重ねるほど、見えてくるのは圧倒的な自力と努力の差である。  高校生の、青春の一貫でトランペットを吹ければそれでいいと思っていた自分とは違う。  彼はもっと、音楽に命を賭け――否、削るような勢いでトランペットを吹いていたのである。その情熱や愛情に、一体誰が勝負を仕掛けることができるだろうか。一時楽しく吹ければいい私と彼とでは、根本的に意識が違っていたのだ。  認めてしまえば、すっと気持ちは軽くなった。自分は先輩として、彼の才能を後押しするのが仕事であるのだと割り切れるようになったのである。彼の素晴らしい音の邪魔をしない、サポートをできるような演奏ができるレベルにまで到達すること。それが、自分達が彼のためにできることであり、同時にこの部活の為にできることであるのだろうと。  ただ、どうしても気がかりであったことが、一つ。
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