水のない川

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 「おばあちゃん、表の窓ふき終わったで。あとどこ拭いたらええん?」  慎一は雑巾をつけたバケツを持って、台所にいる祖母に声を掛ける。  「あとはお風呂とはばかりさんの窓だけや。朝からようおきばりやしたなぁ。ほっこりしたやろ? 今日はもう終いにして、ゆっくりしとき」  昆布巻きの準備をしながら祖母が言った。黒豆を炊く甘い匂いが漂ってくる。うちはお醤油を入れて炊くから、ほんのりみたらし団子みたいな香ばしい匂いもする。  「そんだけやったら、もう今やってしもとくわ」  トイレと風呂の窓なら小さいし、すぐ終わる。     ステファノ祭が終わったら、すぐに冬休みに入る。  年末は大掃除やお正月の準備で忙しいので、慎一は毎年冬休みに入るとすぐに帰省するようにしていた。  祖父母の営む餅屋は一年で一番忙しい時期だし、高齢の祖父母では古い家の大掃除も大変だ。おばあちゃん子の慎一は、この時期は両親の家ではなく祖父母の家に帰省するのが常だった。  家と繋がった祖父のいる隣の作業場では、お正月用の鏡餅と小餅を作っていた。そこにはもち米を蒸す湯気と匂いがたちこめていて、杵つき機の規則正しい音が響いてくる。  「ほな、終わったらおやつにしよか。あとで表いって好きなんもろといで」  祖母が振り返る。小柄だけれど、祖母の動きはいつもきびきびしていて軽く、背筋はピンと伸びている。  染めずに短くふわりと整えられた髪は真っ白で、皺はあっても色の白い肌理の細かい肌はつやつや。  若作りや派手な装いはしないけど、身だしなみには気を遣っていつも身綺麗にしている祖母。この間は、まだ若い外国人観光客から熱烈に求愛されたと得意げに云っていた。若い頃から着物で生活をしていて、今でも着物姿で店番をしている祖母は生粋の京女だ。その外国人の気持ちはよくわかる。  祖母は、孫の欲目を抜きにしても年相応に綺麗な人だった。     窓ふきと掃除を一通り終えて、お餅丸めに来てくれてるパートのおばちゃん達に、えらいなぁと褒められながら、ショーケースに並ぶおやつを貰う。慎一が居間に戻ってくると、祖母が番茶を入れてくれていた。  毎日大きな薬缶でたっぷり沸かして、冬はポットに、夏は冷蔵庫に、いつでも飲めるように常備されている。  少し焦げ臭いような薬くさいような深煎りの京番茶の香りを嗅ぐと、慎一はああ帰ってきたんだなと実感する。     「あんた、家には顔出したんか?」  「ううん、まだ。帰って来たとは言うてあるけど。どうせ昼間はいてへんやろし、今晩顔出してくるわ。泊まるんはこっちで泊まるし」  実家までは徒歩5分。両親の家にも祖父母の家にも慎一の部屋はあるが、正直慎一はこっちの家の方が落ち着くのだ。  冬は寒い隙間だらけの古い町家だけど、石油ストーブにあたりなから、四畳半の居間のこたつでぬくぬくしている方がしっくりくる。  エアコンと床暖房で温度管理された実家の、20畳はあるだだっ広いリビングダイニングのソファーやラグの上よりずっと。  両親は留守がちだし、大掃除もおせち料理も外注してるだろうから、実家に帰ってもすることはないだろうし。  「うちは助かるけど、あっちも待ってはるやろに」  熱いお茶の入った湯呑を慎一の前に置いて、祖母はそう云うと、慎一が炬燵の上にぽんと置いたパックから、しんこやら草餅やらを出して小皿に載せた。     「三が日は向こう行くから大丈夫」  餅屋が忙しいのは31日まで。お正月はお店を閉めてのんびりできるから、二人でゆっくりすればいいと思う。働き者の祖父は盆と正月くらいしかゆっくり休まないし、夫婦水入らずで過ごせる貴重な時間だ。  それまでは掃除や買い出しや店の手伝いをして、夜はこたつ蜜柑でじいちゃんばあちゃんとのんびりテレビを見て、寝る前にこたつで少し課題をやって。それが慎一の年末の過ごし方だった。     祖父母ももう80近い歳だ。今は元気だけど、いつまでこういう生活を続けられるかはわからない。今は離れて暮らしているから、せめて帰ってきたときくらいはここに来たかった。  「美味しいなぁ、おじいちゃんの草餅」  「うちのんは蓬強いから、子どもはあんまり好きやないようなもんやけど。あんたは昔からそれ好きやったねぇ」  両手で湯飲み茶椀を包んで、祖母がふんわり笑った。気の強い口の達者な祖母だけれど、慎一に向ける笑顔はいつも優しい。  その湯呑は慎一が小学校の修学旅行でお土産に買ってきた夫婦茶碗だった。二人は『おじいちゃん』『おばあちゃん』と書いてある如何にもお土産らしい絵柄の安物の湯呑を、大切にずっと使い続けている。     「…なぁ、おばあちゃん」  「なんえ?」  「ステファノ出の初恋の人って、どんな人やったん?」  「なんやの、急に」  「2、3回会うただけやのに、ずっと好きやったんやろ? 一目惚れやったん?」  「――へぇ、あんたもそういうの気になるお年頃になってきたってことかいな。好きな人でもできたんか?」  祖母は艶っぽい笑顔でそう云った。  「そんなんとちゃうから!」  慌てて否定する慎一に、祖母はくすりと笑う。  「一目惚れ言うたら、そうなんかもしれへんなぁ。後にも先にもあんな気持ちになったことはあれへんから、ようわからんけど」  「旦那さんとか、おじいちゃんとかへの気持ちとは違たってこと?」     まだ舞妓として店だしされる前、仕込みの頃に旦那さんに見初められた祖母は、隠居した旦那さんにお暇をもらって30歳で芸妓をひかせてもらうまで、ずっと花街の人間だった。  その後、周囲の反対を押し切って、幼馴染で老舗和菓子舗の跡取りだった3歳下の祖父と結婚して父を産んだ。  旦那持ちの身とはいえ、祇園甲部一の芸鼓だった祖母はそれなりに恋愛経験は豊富だろうと思っていたのだが。     「そっちは、恋いうより情やな。犬猫でも一緒に長いことおったら情が移りますやろな」  淡々と云ってお茶を飲む。普通に番茶を飲む仕草でさえ、花がある。立ち居振る舞いや仕草の美しさは、年をとっても変わらない。  「男はんと知り合う機会は山ほどあっても、それは仕事や。口説かれて、通おてもろてなんぼやさかいな。だんさんは父親より年上やったし、今やったら犯罪やな。まあ、お金もあるし優しい人やったから、良うしてもろたし感謝はしてるえ。 幼馴染やったおじいちゃんは、弟か子分みたいなもんやったし、チビの時は泣きみそのあかんたれやったさかいなぁ。ときめきなんかあるかいな」  祖母は見た目の艶っぽさからは想像できないくらい、情緒とか女らしさとは縁遠いさばさばした性格の人だった。     「ほんなら、その人だけが『特別』やったってこと? そんなに恰好良かったん?」  お座敷で、何度か会っただけの相手で、人と為りもそんなには知らなかったはず。他の人とその人とは、何が違ったんだろうと慎一は思う。  「そりゃあ、まぁなぁ、もちろん男前やったえ。遊び方もきれい。品があって粋で。せやけど、そんな人は他にもようさん居てはった。うちのご贔屓さんに、無粋な人なんておれへん。客選ぶんはこっちやさかいな」  口の端を上げて横目で艶っぽい視線を寄越す。――祖母に入れあげていた男の数って相当だったろうなと慎一は思う。高慢なセリフだけど、花街の女の本音だ。     「だんさんに連れられてきたあの人とは、軽く挨拶しただけ。お酌して、それだけや。何回か来てくれはったけど、いつもだんさんと一緒やったし、うちはお酌するだけで精一杯。だんさんの隣で、どきどきしながらその人の姿を見てただけやった。まだ襟替え前やったけど、男はんのあしらいも知らんおぼこやなかったんやけどなぁ」  「ろくに話もしいひんかったってこと?」  「せやなぁ。でも、話さんかっても、目は合うた。あの人はいつも和やかに場に溶け込んで、だんさんやお姉さんたちとの会話も上手で。――でも、借りてきた猫みたいやったうちの視線に、ときどき応えるように微笑うてくれはった。もうそれだけで良かったんや、うちは」  ほう、と息を付いた祖母の顔は夢見る少女のようで。     「あんな、慎一。理屈やないんえ、人を好きになるのは」  祖母は居住まいを正して、慎一と視線を合わせた。  「目ぇ離せんで、一緒に居るだけで幸せで。どこがとか何でとか、わからへん。他の人とは比べられへん。ただ純粋に、単純に、好きいう気持ちが溢れてくるんや」  祖母はそう懐かしむように微笑んだ。  「今は、ええ時代やな。恋愛も自由や。慎一もようさん恋したらええ。若いうちはなんでも経験や。ようさん悩んで、ようさん失敗したらよろし。…ふふ、あんたが好きになった人は、ややこしい相手なんか?」  「せやさかい、違うって!」  焦って否定をするが、慎一の顏には血が上ってしまった。祖母は少し意地悪な微笑みを浮かべている。     「――好きとか、ようわからん。相手の気持ちもわからへん。恋愛感情なんかどうかも、本気なんか冗談なんかも。わからへん事ばっかりで。…向こうは大人で、僕はまだ子どもで、どうしたらええのんかわからへん」  慎一は思わず、心に浮かんだままを口にしていた。    「ふうん、年上の人かいな。そらよろしい。…色事はな、最初はうんと年上の相手の方がええさかい。いろいろ教えてもらいよし。甘えたらええのんや。遊ばれてもええやないの。――まあ、学生の間はやや子でけへんようにだけ気いつけや」  取り留めのない慎一の言葉をどう解釈したのか、祖母はにっこり笑ってそう云った。  「おばあちゃん…」  さっきの純情な初恋話とは雲泥の差の生々しい発言に、慎一は絶句する。     「実際の色事はなぁ、そんな綺麗なもんでも、純粋なもんでもあらへんのんやで。欲やら見栄やら業やらな。どろどろしたえげつない色恋もようさん見てきたさかいなぁ。うちは正直そんなんが面倒やった。――あの人とどうこうなるつもりも、なれるとも思わへんかったけど、でも、あれがきっと恋やったんやろな。うちの最初で最後の。叶わんかったから、綺麗なままの思い出になった。それだけのことや」  さらりとそう告げる。     「…おじいちゃんは、おばあちゃんのことずっと好きやったんやろ?」  祖父は幼馴染だった祖母のことがずっと好きで、芸妓を辞めて自由の身になるまで、ずっと待っていた。  跡取り息子だったから、年上の芸妓上がりの祖母との結婚は大反対されたらしいけれど、許してくれなければ駆け落ちするとまで言って、ようやく折れて貰えたのだと慎一は聞いた。近所のおばちゃん達から。  祖父母のラブロマンスはこの界隈では有名らしい。無口で職人気質な祖父と、この淡々とした祖母からは想像できないが。  ただの情だとか、恋愛は面倒と言い切る祖母を見ていると、少し祖父が気の毒になった。      祖父は背も低く無骨な容姿で、女性にモテるタイプではない。中身も地味で、典型的な職人気質。口下手で愛想も良くない。祇園一の名花と謳われた祖母が惚れる相手ではないのかもしれないが。  長男で、和菓子職人としての腕は確かだったから家業を継いだけれど、古くから続く京都の老舗和菓子舗が、全国的に知られるような有名店になり、現在の経営規模になったのは、祖父の弟である大叔父たちの才覚や手腕によるところが大きい。祖父は、ただただ地道に菓子を作り続けただけだ。  今では一人息子である慎一の父と親族に家業を任せて、祖母と二人で営む小さな餅屋の主。そんなささやかな暮らしが長年の夢だったのだと、いつだったか、珍しく酔った祖父が話していた。    『おばあちゃんとな、毎日一緒におってな、お菓子作ってな、身体も元気で暮らさしてもろてる。かいらし孫もおる。ほんまにありがたいこっちゃ。じいちゃんの夢はぜんぶ叶のうたわ』     赤い顏で頬を緩ませて、慎一の頭を撫でる祖父。そんなに呑んで、弱いんやさかい明日に残りますえ。と、祖母は呆れていたけれど、祖父の機嫌は良いままだった。     「せやなぁ、あんな気い長い人は滅多にいてはらへんやろねぇ」  感心しているような呆れているような微妙な顔の祖母だったけれど、  「そうや、ええのん見せたげるわ。おじいちゃんには内緒やで」  ふと思いついたように、祖母は腰を上げて奥の納戸へ何かを取りに行った。帰ってきた祖母の手には古ぼけた結び文。  慎一の前に座りなおした祖母は、丁寧にその文を解いて広げてみせる。そこには筆書きで和歌らしきものが記されていた。     「ことにいでて  言はぬばかりぞ  みなせ川  下にかよひて  恋しきものを――。古今和歌集の歌や。うちの水揚げのときにな、ことづけでもろた文やさかい、誰からかは聞いてへん」  祖母をその文字を指でなぞりながら読んでみせる。恋の歌だ。古文はあまり得意ではないけれど、そんなに難しい和歌じゃない。なんとなく意味はわかった。  「水無瀬川はな、水のない川って意味やけど、水が枯れてしもてるわけやない。水がないように見えて、その地下には流れてるんや。秘めた想いの喩えやな」  そう云って、祖母は思わせぶりに目を細めた。     差出人の名前は無い。でも――。  お茶事や季節の行事に用いられる菓子を作る和菓子職人は、古典の教養も必要で。そして、「水無瀬川」の恋歌。  「恋文は山ほどもろたけど、これ以外は全部ほかしたわ」  照れ隠しのように、素っ気ない調子でそう云った祖母。  告げられない恋心を託した文。いつからか、密やかな想いを抱き続けていたのは、きっと祖父だけじゃない。  「おじいちゃんの粘り勝ちかぁ」  「ほんまやなぁ。結局絆されてしもたわ」  顔を見合わせて、笑う。  石油ストーブの上の薬缶がたてるしゅんしゅんという音と、壁の向こうの杵つきの音。漂う甘い煮豆の匂い。慌ただしい年の瀬の、穏やかなひと時だった。           その夜、慎一は二階の自室のベッドに潜りこんでから、ラインの画面を開く。  昼間に届いていた彼からのメッセージには何枚かの写真が添えられていた。業種的に定休日のない会社だけど、世間では仕事納めの日の今日、会社で餅つきをしたらしい。  若手の社員が法被を着て頭に手拭いを巻いて、木の臼と杵でついている様子。つきたてのお餅を食べてる様子。餡子や醤油や、いろいろな味付けがあるみたいだ。意外と本格的な餅つきの写真は皆楽しそうだし、美味しそう。  高嶋さんの会社らしいなと思う。     『大掃除がんばってる? おじいちゃんのお餅には負けるだろうけど、うちのお餅も美味しかったよ』     『帰ってきたら、デートしようね』     相変わらず、挨拶代りの口説き文句。メッセージのやり取りは、なし崩しにほぼ毎日になってしまった。会ったのはまだ3回。ステファノ祭から、まだ一週間も経っていない。  なのに、早く会いたいと思っている自分がいる。この気持ちがなんなのか、祖母の話を聞くまでもなく、もう本当はわかっているけれど。     慎一は、昼間に撮った画像をタップしていく。台所に立つおばあちゃんの後姿、パートのおばちゃんたちのお餅を丸める手元。おじいちゃんの草餅、坪庭の縁側に続くきれいになった掃出し窓のガラス。  ありふれた日常の、でも慎一の大切な時間を映したもの。それはきっと他人にとっては何の意味もないひとコマで。  慎一は普段あまり写真は取らないし、ましてやそれを人に送ったりすることはないけれど。  楽しそうな高嶋の日常を垣間見られて、慎一は嬉しかった。  離れていても、楽しかった時間を共有しているようで。  彼も同じように、そんな気持ちになってくれるだろうか。自分が抱いてる思いと、彼の思いは同じものなのだろうか――。     写真を貼りつけて送信すると、すぐに既読が付いた。  そういう些細なことが嬉しくて、バカみたいだと自分でも思う。メッセージを送ろうかと思ったけれど、会いたいとか、デートを楽しみにしてるなんて、とても書けない。  他の言葉が思いつかなくて、ため息をつく。しょうがなく、おやすみなさいとだけと打ちかけた時、電話が鳴った。  「え!?」  慌てて置き上がってしまった慎一は、鳴り出したスマホの画面をみて固まる。高嶋からだった。メッセージのやり取りは毎日してるけど、通話は初めてだ。  暗い部屋に響く着信音がやけに大きく聞こえて、焦った勢いで通話をタップしてしまう。     『こんばんは、慎一くん。今大丈夫?』  スマホ越しに聴く声は、夜だからか静かなトーンで、いつもの高嶋の声とは少し違う気がした。  「…はい。大丈夫です」  声は、落ち着いていたと思う。胸のどきどきは自分には響くけど、彼には聞こえないから、大丈夫。  『ごめんね。送ってきてくれた画像見たら、声が聴きたくなって』  僕も。と返しそうになった。こんな耳に心地いい声、ずっと聴いていたくなる。  『おじいちゃんち、居心地よさそうだね。あー、おばあちゃんたちといる可愛い慎一くんが見たい。ほんとはそっちに遊びに行きたいけど』  はぁ、とため息をつく。彼のセリフは、甘ったるすぎてリアリティがない。真に受けてたら神経が擦り減る。冗談半分の軽口だと流すクセがついてきた。  「何いってるんですか。忙しいんでしょ? 今」  『残念ながらね。慎一くんが帰ってきたら、いっぱいデートできるように、今の内に頑張って働いておかないとなー』  いい加減そうな見た目と態度とは違って、彼が仕事人間なのはもう知っている。  「ふふ、そうですね。今のうちに頑張っておいてください」  『え? それってオッケーってことだよな?』  しまった。と、慎一は口を押える。デートに行くのが当然のような流れの会話に、つい乗ってしまった。まだ彼にちゃんとした返事はしていなかったのに。  『やった。うんうん、頑張る。超頑張る。冬休み明けの土曜日は空けといてね』  そのあと、嬉々としてデートの計画を立てる高嶋に、まあ、いいかと慎一は素直に相槌を打つ。  考えてもわからないなら、少し自分の気持ちに素直になってみてもいいのかも知れない。そう慎一は思った。    
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