突きつけられた現実

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 ポン酢を絡めたフグの切り身が長沢の口に運ばれた。コリコリとした歯応えがある中で出汁にしみ込んだ野菜の旨味が口の中に広がっていく。生まれて初めてのフグ鍋。しかし、その珍しい食感と出汁の深い味わいを堪能し切れない長沢の姿がそこにはあった。 「おぅ!こっちのテーブルは元気にやっとるか?」  鍋がグツグツと煮える中、牧場先生は日本酒の入ったグラスを片手に僕達のテーブルへとやって来た。 「あ、先生」  長沢はそうつぶやいたが、言葉がそこで途切れた。 「もっとフグ、入れてええんやで?」  牧場はそう言うや否や箸を手に取り、フグの切り身をガンガン入れていく。 「さぁ、どんどん食え!」  牧場の号令に従って周りの生徒は次々と箸を鍋の中に入れていく。鍋をつつきながら、どの先生の授業を取ってるか、センター対策と二次対策をどう両立してるか、併願私立や後期日程の出願をどうするかなどといった話がフグ鍋の上を行き交っていた。長沢はちまちまと鍋をつつきつつも、その話の輪に入っていけずにいた。   「なんや、人生の終わりみたいな顔しとるな」  牧場は長沢の隣に座り、日本酒に口をつけた。 「そんなに酷い顔してますか?」 「ああ。何とか平静を保とうとはしとるが、顔から悲壮感が滲み出とるで。このまま写真を撮ったら『人生で一番暗かった日』とかってタイトルにできそうやで」  牧場は笑いながら、長沢の手元にあるグラスに烏龍茶を注ぎ足した。 「今日、面談で志望校を下げろと言われました。このままだと東大はかなり厳しいと。一橋大でもギリギリで、東北大が妥当なラインだと言われまして」 「そうか……イブなのに散々やな」  カラ元気を出そうとしている長沢に一言そう告げた牧場はグラスの日本酒を飲み干した。 「お待たせしました。浦霞大吟醸です」  女将がそう言ってグラスに並々と注がれた酒を持ってくる。早速牧場はそれに口をつけた。 「でも、ワレはツイとるんやで」 「ツイてる?」  思わずそう訊き返した長沢に向かって牧場は力強く頷いた。 「そうや。今ワレには勝ち続けた人間には見えない世界を見ることができとるっちゅうことや」  長沢と牧場をよそに、他の生徒達はこぞって鍋に箸を入れている。 「ここにいる人間は皆、浪人という宝物を手にしておる。人生というレールから1年、脱線して遠回りしたことでしか見られない世界や。勿論、今日このイブにワレが見えてる景色も、そうじゃ。地べたを這いつくばってのたうち回るくらい苦しんだ経験をすることではじめて得られるものも、世の中にはあるんじゃ。それは勝ち続けることのみで手に入れることは絶対にできへんからのう」  牧場は遠い目をしながらそう語る。 「でも先生は勉強はできたんでしょう?阪大を出て現代文の講師をやるくらいなんですから」 「ワシが勉強ができただって?ハハハハハ」  牧場は豪快な笑い声を上げる。 「ワシは一浪した上に第一志望の京大には落ちて、さらに大学で2年留年したんや。どこが勉強ができたんじゃ?ワシが予備校で勤まっとるのは、むしろ勉強がそこまでできひんかったからやで?」 「……それは、どういうことですか?」  長沢がそう問いかけると、牧場は右手の人差し指を立てた。 「できひん人間やった経験があるからこそ、できひん人間の痛みも、あがいても光が見えない苦しみも分かるからじゃ。もがき苦しんで掴んだ者こそ、他のもがき苦しんでいる者の助けになれる。場合によってはそのもがき苦しむ後ろ姿を見せることだけで、誰かの光になる場合だってあるけぇの」  牧場はそう告げると、スイス製の腕時計に目をやる。時計はすでに7時半を回っており、女将が雑炊用の白飯と卵を持って部屋へと入ってきた。 「そろそろ、締めやな。辛気臭い顔になるのも分かるが、そんな時こそしっかり食っとけ!フグ鍋の締めの雑炊は旨いぞ?」  牧場はそう言って長沢の肩をポンと叩く。長沢は黙って頷くと、土鍋からおたまで雑炊をすくい出した。れんげに息を吹きかけて、雑炊を口に運ぶ長沢。ふんわりとした卵の食感とフグの旨味、そしてご飯の甘味が口の中で協和音を奏でた。 「よし。じゃあそろそろ出るか」  時計が8時を回った頃、牧場はそう言いレジへと向かう。わらわらとレジの周りに集まる長沢達を 「奢られる側は会計額を見ないのがマナーじゃ」  と告げて外に出した後、財布の中からゴールドカードを取り出した。  長沢達が待つ国分町の路面にはうっすらと雪化粧が施されており、空には街の光を反射した色とりどりの粉雪がまだパラパラと舞っていた。体を震わせて掌と掌をこすり合わせていたとき、牧場先生がガラガラと引き戸を開けた。 「よし。じゃあ最後の仕上げやで。皆、行くぞ!」  牧場先生は再び長沢達「浪人生御一行様」を引き連れて国分町通りへと繰り出していった。
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