『今』がある理由

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『今』がある理由

 時は流れて20年後の12月15日。青葉川銀行仙台本店の融資相談ブースにはピシッとしたスーツを着こなした長沢の姿と、1人のくたびれた作業服の男の姿があった。作業着の男は懐の名刺入れから 「まごころ練り込み 有限会社 極蒲(ごくかま)代表取締役 赤木伸太郎」  という名刺を取り出して男に渡す。赤木の名刺入れには様々な金融機関の融資課職員の名刺が何枚も何枚も入っており、パンパンに膨らんでいた。 「融資、何とかなりませんか……」  貸借対照表を覗き込む長沢に向かって赤木は懇願するかのような目つきでそう問いかける。お世辞を重ねても芳しいとは言えない数字を目の前に、長沢の目つきが険しくなった。長沢は結局東大の前期試験にはあと数点のところで及ばず不合格だったが、後期試験で見事東北大の経済学部に合格。大学卒業後から、この青葉川銀行の融資部職員として東北各地を転々としながら勤務を続けている。節くれだった手を祈るように組みながら長沢の反応を見る赤木。しかし、長沢の表情が変わることはなかった。 「やっぱり、ダメですか……」  自嘲するかのような声を赤木が上げた。長沢はその声には反応せず、目を皿のようにして分厚いファイルに綴じられた資料と向き合っている。 「ダメなら早めに言って……」 「赤木さん、融資をするには抜本的な事業計画の見直しが必要になりますが、どこまで覚悟がおありですか?」  赤木の声を遮るように、長沢がそう問いかけた。 「融資、してくださるんですか?」 「私は一介の行員でしかありませんし、融資確約をすることはできません。ですが、何とかお力になりたいとは思っています」 「ありがとうございます。経理資料を見ただけで何度も門前払いにされていたので……」  赤木は深々と頭を下げた。 「私自身、極蒲の笹かまぼこの大ファンなんです。特に仙台ちゃ豆味が好きなんですよ。あの震災で大きな打撃を受けながらも伝統の味を守り抜いている老舗をそう簡単には潰したくないのでね」  長沢がそう答えると、赤木は思わず目を瞑った。左手薬指の指輪に向かって一滴の涙がこぼれ落ちた。 「しかし、この状況では前向きな稟議書を書けないというのも事実です。再建案を一緒に作りたいので、追加でいくつか資料をご持参ください」  長沢はそう力強く告げ、A4の紙をテーブルに置いた。そこに黄色のラインマーカーを何本か引いていく。 「はい。では早速明日、これらを持ってきます。本当にありがとうございます」 「感謝の言葉は、極蒲の再建がなされる迄取っておきましょう。いつまでに話がまとまればいいですか?」 「12月25日、この日までに何とか……」 「クリスマスですか。分かりました。時間はありませんけど、お互いベストを尽くしましょう」    長沢はそう告げると、右手を差し出す。赤木は何かにすがるような面持ちでその手を両手で握り返した。  赤木が銀行をあとにしたところで、長沢はデスクに戻る。 「長沢係長、最終確認お願いします」  新人の黒岩がそう言ってスーパー神田の融資に関する稟議書を持ってきた。 「わかった。目を通しておくよ」  長沢は黒岩にそう告げ、稟議書に目を通し始めた。よく書けており、大きな問題はなさそうだ。長沢は印鑑の入っているデスクの引き出しを開ける。そこには印鑑の他に1枚の色あせた写真が入っていた。 ーー20年前のこの笑顔、ホントに引きつってるよなぁ  長沢は思わず苦笑した。 「もがき苦しんだからこそできることが必ずある」  写真は色あせても、あの日手にした哲学が揺らぐことはない。その想いを胸に、長沢はこの写真を今も大切に保管している。  写真の裏には右端に小さな字で題名が記されている。その題名は勿論、 「人生で一番暗かった日」だ。 【終】
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