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3. 夜が更けて
夏のヨーロッパの日没は遅い。
特にここは南仏。いつまででも空はほの明るく、ジージーと日本とは全く異なる啼き方をするセミがいつまででもその存在を主張している。ここらの人々の晩御飯の時間が遅いのも頷ける。九時を回ったくらいでようやくなんとかすっかり暗くになったな、夜が来たな、と感じるほどだ。
……それにしても、大ごとになったなあ。
自分ひとりのためなのに、しっかりと用意された夕食を食堂で終えて、部屋へ戻ったわたしは大きなベッドに腰を下ろしながら嘆息した。
昼間、一時間以上かけてニコが手伝ってくれた「魔除けハーブ」による飾りつけをした部屋はすっかり様変わりしていた。
古城ホテルらしく、どっしりと、豪奢にまとめられていたインテリアなのに、至る所に束ねた魔除けの香草が置かれている。積んだりくくりつけたり吊るしたり。ベッドの周りときたら魔法陣のように香草が積まれ、禍々しいような光景だ。妙な舞台装置の中で寝るような気分になる。寝られないんじゃないかと本気で心配になるくらいに。
長湯をする目的であえてぬるい湯を張ったバスタブでわたしは足伸ばし、仰向けになって目を閉じた。
少しでも昂った気持ちを鎮めようとする。
思い出すのは仕度が済んだあとのニコのこと。
ニコは仕度が済んでもなかなか帰ろうとしなかった。
ただの友人にここまでよくやってくれたと思う。丁重に感謝しつつ「さあお帰りを」とどれだけ言ってもしつこく食い下がった。心配だ、自分も泊まる、となりの従者の部屋(古城ホテルらしく、本当にそのような部屋があるのだ)でいいからそこにいる、「ぜったいに今は」手出しはしないと手を挙げて宣誓するように言い張っていた。
「大丈夫だから今日は帰って!」と最後は半ギレで追い返したようなものだ。
「今は」手出しはしない、なんていったいどういうことなのか。
泊まってもらったらかえって別なことで危険な気がするのよ、と、うっかりはっきりと言ったらじろりとわたしを見下ろして、「今はダイジョブだよ、今はね」と妙な日本語を交えてニコは言い、「とりあえず帰るけど、今日の俺の働きに褒美をくれないの?」と手を差し出して堂々と見返りを要求し、「ごめんなさい、あまり現金の持ち合わせがないの」と思わず謝ったら手を引っ張られ、くすりと笑って抱き寄せられて。
「真面目だな、クミ。──好きだよ」
呆気に取られてものも言えず、暴れることすら忘れて立ち尽くすわたしの頬にキスを落として。
今日はこれでいいや、また明日、としゃあしゃあと言って彼は帰って行った。
******
ぱしゃぱしゃ、とあえて大きな水音をたてて、湯船の中で顔を洗う。
まだ唇の感触が残っているみたいだ。
正気を取り戻そうとして、自分の頬をぺしぺし叩く。
いきなり抱き寄せられてびっくりした。
頬にキスまでされた。たとえこちらの人たちにとってはあいさつ代わりといってもわたしにとってはさらにびっくりだ。
……でも、そんなに嫌じゃなかった。
顔が赤らむのを自覚する。
ニコは素敵なひとだ。初めて出会ったとき、なんてイケメンなフランス人、と内心顎を外したほどだ。
でも、観賞用と実際に恋愛するのとは違う。わたしにとってニコは日本かぶれの楽しい友人で、見た目だけは鑑賞用、そんな感じだった。
たぶん、あんまり素敵だったので、初めから恋しないよう、自分の気持ちにシャッターを下ろしていたのだろう。
それが、今は。
本当にわたしのことが?それともちょっとした軽い冗談?
本気なら嬉しい。冗談なら悲しいな。あ、でもちょっとでも楽しい夢を見せてくれたら。それはそれで嬉しいことかも。
別に潔癖なわけじゃない。単に最近は彼氏もおらず、男っ気なしだっただけだから、わたしは少々の刺激で興奮してしまった。
シャワーブースに出てからだを洗ったり。また湯舟に戻って自分の妄想に身悶えたり。
このときは、さすがに「あの夢」のことは忘れていた。
もともと長風呂のつもりだったけれど、どのくらいたったのか。
いつのまにか、わたしは湯舟の中でうたた寝をしていたらしい。
次にわたしが目を覚ましたのは……いや、正しく目を覚ましたわけではなかったのかもしれない。
「──そなたに会いに来たというに。……起きぬか」
ほんのわずか苦笑をはらんだ、艶めいた低音が耳元で囁かれた。
愛おしげにわたしの髪を梳く指。
その指の冷たさ。氷の吐息。
「あなた。……」
信じられないほど甘えた声が聞こえる。頭のどこかで、こんな声は自分の声じゃない、と思う。
けれど「わたし」は早く抱きしめたくて、抱かれたくて手を伸ばして。
望みはすぐにかなえられた。
「……妃よ」
凍えるほどの冷気を纏ったまま、声の主はわたしをしっかりと抱きしめた。
冷たい。寒い。
でも確かに感じる。硬い胸と、わたしを満たす力強い昂ぶり。
ほしい、欲しい。狂いそう。早く、もう……!
「あなた、おねがい、早く……!」
「ああ、すぐに」
満たしてやろう、と彼は言って。
凍てついた剛直をひといきに打ち込まれた。
絶叫しようと開けた口は、冷たい唇によって塞がれた。
「は、ん、ああん、ああああ!!」
くちづけを解いたあと、繋がったまま体勢を変えられ、浴槽に手をついて獣のような姿勢で後ろから激しく突き上げられる。
ゆれる胸は強く揉みしだかれ、痛いほどに張りつめた乳首は氷の指に挟まれ、捩られる。
気持ちがよくて全身が痺れるようだ。背中から聞こえる荒い息遣い、たまにざらりとした舌で耳朶を舐められ「愛しい妃よ」と囁かれて。からだだけじゃない。思考までも全て満たされて、多幸感に包まれる。
それでも。
何かがおかしい、と脳裏のどこかで、どこかはるか遠くで警鐘を鳴らす自分がいる。
まともな声が出せないほどの衝撃で穿たれているのに、肌が肌を打つ音がしない。浴槽の中で立っているはずなのに、湯船の波立つ音がしない。
これは。このことはやはり、おかしい──
おかしい、と口にしようとしたその瞬間。
「まだ足らぬようだな」
明らかに苛立だった声がした。
ひときわ激しく、深く突き上げられて。
わたしは気を失った。
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