中学2年の夏のこと

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 左手に臨む海を眺める余裕は最初しかなかった。露骨に避けて行く車には申し訳ない気持ちになるし、右肘すれすれにビュンと行く車には危ねえだろと叫びたくなる。叫び返されるに決まっていたから呟くのが精々だけど。  いい加減立ち漕ぎにも疲れた頃「押してく?」と神野の声がした。振り向くと神野のこめかみの辺りを汗が流れた。生きてる、と思った。いつでも涼しそうな顔をしている印象が強い神野が同じように汗だくだった。それがなんだかおかしくて嬉しくて「押してく!」と降参した。いつもいるメンバーとだったら意地の張り合いになったに決まっている。汗がやべえとか叫び合いながら。  駐車場の文字は輝いて見えた。運動経験といえば体育と運動会だけの中二男子には山道で自転車を押し続けるのもしんどかった。これがきっと満身創痍だ。  自転車を留めた神野はちょっと疲れたかなくらいの顔でいるから、全身全霊で羨んだ。 「神野って何部だっけ」 「茶道部。日本文化に興味があって」  は?は、なるほど、に変わった。  神野はアメリカからやってきた。東京生まれの日本人だけれど物心がついた頃にはニューヨークで暮らしていた。東京もものすごく遠いこの町に来たのは、お祖父さんと暮らすため。引っ越してきた頃にそう聞いた。だからいつかはまた遠くへ行くのだろう。たぶん神野を知るみんながなんとなくそう思っている。  パタパタと白シャツの内側に風を送る神野は仰がれていたことに気づいてふいふいと視線を彷徨わせた。気まずいというよりは照れている寄りの、どうしようという感じだ。流行に乗って前髪を伸ばしているというのは似合わないと思っていたけれど、恥ずかしがり屋だったか。なるほどなるほど。向かいからだけじゃなくなった風が良い仕事をした。 「そういえば去年の文化祭で浴衣着たんだってな。女子がきゃあきゃあ、今年もって期待してた」 「佐竹も、よかったら来て。お茶とお菓子、サービスするし」 「まじ?作法とか教えてくれる?」 「うん」  嬉しそうにふんわりと笑う。あんまり優しい顔だからこっちがどぎまぎしてしまう。声変わりした声は低くて穏やかで、同級生なのに何もかも違う。神野くんはカミだから、なんていわれる同性は果てしなく遠い。  灯台もサザエなんかを焼いている店も本日はすでに営業を終えていた。それでもウミネコはみゃあみゃぁ鳴いているし、手を繋いでいるカップルや男女混合のグループや家族連れで進む道は賑わっていた。  潮風が汗の臭いを運んできた。腕をくんくん嗅いでみる。自分のものとわかっていても思わず眉が寄った。 「くっさ」  神野が、はは、と笑う。 「俺もくさいよ」  どう聞いても嘘っぽかった。だから神野の腕に顔を寄せてみた。 「ほんとだ。神野もくさい。だけどなんかいい匂いもする」 「それは気のせい。そんなに嗅がないで」  そんなに嫌がらなくてもと唇が尖りそうになって、いやいや俺もされたら嫌だし友だちには絶対にしたくない、と思って神野は友だちとは別枠と気づいた。カミ枠かな。  太陽はとっくに海に道を作っていた。歩けそうなほどにしっかりとした一筋の光が海面に輝いている。  空の色も変わり始めている。夕陽と呼べるようになった光源はどんな色も覆いながら物の形を浮き彫りにして、雲をとりどりに彩っている。沖に船が一隻。飛んでいるのはウミネコなのかカモメなのか、ひょっとすると鳶か烏か。影のような形だけがある。  海の向こうに陸は見えない。ザザンザザンと浜辺と同じようでいて時折ドバァンと岩に砕ける波は荒らぶっているとまではいかない。点々といる誰もがはしゃいではいない。  太陽が、正確には地球の方が、刻々と位置を変えて行く。見える何もかも留められない。わかっているのに突き付けられる。変わらないものに触れていたくて、岩に置いていた手の位置を無造作に変えた。するとほんのり温い、やわらかくて硬いものが手の下に来た。神野の左手。 「ごめん」 「うん、ううん」  首を振った神野も動揺していた。止む気配のない風が長い睫毛の動きまで見せる。  橙や朱や黄、温度を感じる色が神野を彩っている。頭のてっぺんからの輪郭、真っすぐな鼻筋の影。海の方へ向き直った神野の、世界の本当を知っているような眼。 「きれいだな」 「うん。これが見たかったんだ。ここからのゆう」  夕陽が、と神野は言ったはず。風が初めて神野との間で邪魔をした。  膝を抱えた神野は海の方、夕陽ばかり見ている。 「小さな頃、ここに来たことがあって。祖父と二人で」 「神野のじいちゃんか。かっこよさそうだな」 「やさしくて物知りな人だった。美しいものは人を引き込む。近づきたいと思わせる。ここは近づきすぎると命を落とすから、一人よりも誰かといるのがいい、って言われた。ここには岩と海と空と太陽、それから自分がいるだけだから、全部が明らかになる。自分がからっぽになって、嘘とかごまかしたい気持ちとか、全部遠くへ行く。残るのは一緒にいる相手が自分にとっての何なのか、それくらいだ、って」 「うん・・・・・・?」 「正直、よくわからなかった。ただ、おまえが大事だよって言われて嬉しかった。なんとなく感じていたけど、形があるものみたいに受け取って」 「うん」 「佐竹が付き合ってくれていて、おじいちゃんの言いたかったことが少しわかった。ありがとう」 「俺でよければいつでも」  神野の目元や口元に笑みが浮かぶ。綺麗だ。いつまでも見ていられるんじゃないかと思ってしまうのも、引き込まれているってことだろうか。 「じいちゃんは元気?」 「亡くなった」 「え?」 「きょう。さっき。通夜は今夜。ずっと寝たきりだったから」  神野の目がこっちを向く。真っ黒な瞳はこの辺りの海よりもずっと深そうだ。 「ばっ!」  ばか、という言葉が合っているのかわからなかったから中断した。 「帰るぞ!」  思い切り掴んで引っ張っても神野は立ち上がろうとしない。悔しいことに体格差があるので神野を引っ張るしかできない。  生憎じいちゃんばあちゃんの記憶はないし家族はぴんぴんしているから共感はできないし通夜なんて言葉しか知らないけれど、こんな悠長にしていていい場合じゃないことはわかる。 「神野!」  神野は嫌がっても困ってもいない。もちろん焦ってもいなくて、静かな顔を夕陽に向けている。せめてこっちを向いてくれたらいいのに。神野の世界から排除されたみたいだ。 「かぐぞ」  神野の脇に寄せた鼻と口を片手で覆われる。言葉以上に明確な拒絶だ。けど神野はもうこっちを見ている。心がひたりと潤いを含む。 「もうすぐ陽が落ちる。俺も神野が大事だから、先には帰らない」  普段つるんでいるわけでもない相手から大事と言われた神野の視線が右往左往する。一緒にいる時間が長いから大事に思うわけじゃないはずだけど。 「絵は?海岸で描いてた続き」 「神野の家で描く」 「え」 「あんなのどこでだって描ける。さっさと立てよ。散歩せがんでる犬みたいで恥ずかしいだろ俺が」 「可愛いよ」 「嘘だ」 「今の俺に嘘はないよ」  じゃあ趣味が悪い、と思った通りに顔に出たのか、神野は困ったように笑った。
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