さなぎの兄

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 部屋の中は白く、幾筋もの繊維が絡むように蔓延っている。中心にあるのは兄の蛹だ。  ベッドの上に横たわる蛹は、異なる体へと――おそらく蝶へと変態しているところなのだ。  毎日その姿を見に部屋に入った。いつ変わる、いつ会える――と思いを募らせる中、ある日唐突に、蛹は消失した。  どころか、兄の寝ていたはずのベッドも彼の荷物も全て失せていた。かつてたしかに兄弟二人で使っていたはずの部屋に兄のいた形跡が少しもない。  この世にあったはずの兄の存在の片鱗すら、なくなっていた。 「兄貴……」  呼んだところで返答は無い。土の中から掬い上げた小さな幼虫。頼りなげに微笑む兄の姿を思い出す。  ……すぐる、と名を呼ぶ声は確かに耳に残っているというのに。  細く開かれた窓の隙間に目をやると、何かの残滓がそこにある。指先で触れてみればそれはきらきらと輝く鱗粉であった。  ……たしかに成ると言ったのだ。  俺が幼いころに思い描いたあの蝶になると、兄はそう言った。  嘘が苦手な兄だった。人の真っ直ぐな思いを受け取るのも騙すのも心苦しそうにしていた人だ。――だからきっと、兄は俺に嘘は吐かない。 『いつか遠くへ行くよ。宿を捨てて姿を捨てて、旅立ってしまうんだ』  それでも僕は兄だろうか? とあの人は問うた。  ――それでも兄ちゃんはほんものだよ。  目の前で起き上がってくれた時の感動を、兄は知らない。見つめ続けるだけの兄が目を開き俺の姿を捉え、名前を呼んでくれた時、どれほど嬉しかったのか。優しい兄でいてくれてどれほど心安らかでいられたことか。 「追いかけて見つけてこんこんと説明してやらなきゃ分からないってんなら、お望み通りそうしてやるまでだ」  姿の変わったことが怖いか。こんなのやっぱり兄ではないと拒絶されるのが怖いのか。それでも見つけてほしいと願うのか。――我儘な。  気付けば口の端が上がって笑っていた。 「それでも兄貴だって言ってやるよ」  今はどんな姿で在るだろう。流麗な模様を翅に持つ色鮮やかな姿だろうか。たしかに成ってくれると言った姿を早く見てみたい。なり損ねてみすぼらしい翅だとしても、まるで違う虫だとしても構わない。  兄はどこまで羽ばたいただろう。風にのって遥か上空まで舞っただろうか。  体の弱い兄の支えとなるために体力をつけた馬鹿な弟を持ったことを悔やめばいい。どんなに遠くへ行こうと空の彼方へ羽ばたこうと、心の本当のところで兄でありたいと願っているなら、それは捕まえてほしいという気持ちと同義だ。  大きく窓を開け放ち息を吸う。見上げる空のどこかに羽ばたいているはずの兄の姿を求めて、俺は世界を見渡した。
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