さなぎの兄

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 眠り続ける兄の病室に蝶々がいたら綺麗だろうなと、幼い俺はあの日思った。  生まれてから一度も目を覚まさず、弟の俺とも言葉を交わしたことのない兄。  病室はカーテンも壁もシーツも兄自身も白いばかりで色味に乏しい。鮮やかな翅を持つ蝶が一匹でもいたら、目を開くことは無くても兄の心の慰めになるかもしれない。  小学校からの帰り、いつもの見舞いに行く途中の道で幼虫を見つけた。あまりに小さく弱々しいので守ってやりたいという気持ちもあった。掌の中に匿い通いなれた病院へと足を速める。  俺は大事に包んで連れてきた幼虫を兄の枕元にそっと置いた。何か入れ物を、と探そうとしてから何とはなしに兄を振り向く。  すると、先ほどの幼虫が兄の耳に入って行くところだった。 「あ」と声が出て駆け寄る。  小さな虫はまるで気を使いでもするようにそっと、けれど思いの外素早く兄の体の中に入っていった。  人を呼ばないと、と病室を出ようとした瞬間、兄の目がゆっくりと薄く開かれた。  初めて見る瞳。 「……すぐる?」  初めて耳にする声。その掠れた声の示すのが「優」――自分の前だと理解するのにわずかに時間がかかった。  自分の名が呼ばれたのだという事実に心がさざめく。色のなかった病室に俄に色がさしたように感じた。  半ば呆然としながらようやくうん……とだけ返事をする。  起きたばかりの兄はゆっくりとこちらに手を伸べた。縋るようなその姿の儚い在り様が、掌に掬い上げた頼りない虫の佇まいを想起させた。  ――むしがなかにいる。  いずれ綺麗な蝶々に変ずるであろうあの幼虫。不慣れに笑いかけてくる兄の表情に、幼いながら庇護欲が湧きあがってくる。この手に掬い上げた小さな命が、毎日見つめ続けた大事な兄の中に在る。  ……兄ちゃん。  そう、初めて呼びかけてみた。  兄は少しの戸惑いを見せてから頷く。  意識も無く眠り続けていた兄は、そうして目を覚ましたのだった。
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