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「これってさ、戦争中に貰ったヤツなんだよね。だけど、終戦直後のどさくさで動かなくなっちゃってさ。修理に出してみたけど、お手上げだって言われていたんだ」
「え。それじゃあ、壊れてから凄く日が経っているわよね」
「そうなんだよ。壊れてから手巻きもしていないし、それが今更動き出すとか有り得ない」
手巻き式の時計は毎日ないし数日に一度、中のぜんまいを巻き上げなければ動かなくなる。ましてや壊れて何年もの月日が経ち、ぜんまいを巻くことすらしなかった時計が再び動き出したなど聞いたことが無い。大抵は中の潤滑剤が固着してしまったり、精密機器が錆び付いて手の施しようがなくなってしまうもの。
そこまで思慮を巡らせ、ヒロは懐中時計の上蓋を閉じた。
「これさ。とりあえず、ビアンカに持っていてもらっていいかな」
自分は海に落ちたことで全身ずぶ濡れ。ボトムどころか下穿きまで水を含んだ状態で、何処にも懐中時計を仕舞い込んでおく場所がない。
ヒロがそれを言う前にビアンカは意図を察したのだろう。ゆるりと首肯して、ヒロから懐中時計を受け取った。
「大きさは男の人向けだけれど、彫り物は女の人向けよね。このお花、スノーフレークかしら?」
「どっちつかずなデザインだよね。成り行きで貰ったものなんだけど、ちょっと不思議な縁だったから大事にしていたんだ」
「へえ。なにがあったの?」
「えっとね。まだ戦争が始まったばっかりの頃――、って。昶と亜耶の乗っている偶像の音が凄くって気になっちゃうな」
時折、“紫電”が急激に高度を落としてくるのだろう。飛行音が身体に響くほど大きくなって、話し声が掻き消される。轟音に負けぬよう声を張ることもできたが――、ヒロは諦観から首を振った。
今は昶と亜耶のことを考えよう。いったい昶と亜耶の身に何があって、空から落ちてきたのかは分からない。しかし、二人が些かの焦燥を持って偶像に乗り込んで飛んでいったのを考えるに――、やんごとなき事態に巻き込まれたのだろうと推察できた。
『お節介』だと揶揄られる自分の悪い癖だとは思いつつ、困っている知人を放っておけるほど薄情にもなれない。
「この話は、落ち着いた時にするね。――とりあえずさ、昶と亜耶が戻ってきたら何があったのか聞いてみよう。二人とも慌てていたみたいだし、あの偶像のことも教えてもらいたいしね」
「ええ、そうね。二人とも空から落ちてくるなんて、なにがあったのかしら」
紺碧の瞳が空を映せば、釣られるように翡翠の瞳も上を向く。上空を甲高い音を立てて飛翔する偶像――、昶と亜耶の乗る“紫電”を見やり「何なんだろうね。あれ」「さあ……?」といった会話を繰り返すのだった。
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