1人が本棚に入れています
本棚に追加
その1
彼女にとって最も身近な存在である僕は彼女の世話役を引き受けることになった。
別に彼女に好意を抱いているとか仲が良いとかそういう訳ではない。ただ、彼女とは家が隣同士でお互いが同い年で幼馴染という繋がりからだった。彼女とは小学生から一緒で兄妹のように育った為、愛着というか無視出来ない存在だった。彼女の母親に世話役を頼まれた訳だが、嫌々ではない。むしろ、快く引き受けた。理由としては僕自身も彼女がほっとけないからである。彼女は別に障害や病気を患っているという訳ではない。身体に至っては健康そのものである。しかし、彼女は少し変わっていた。と言うのも。
「おはようございます。私はこうしてあなたが現れるのを今か、今かと待っていました」
と、彼女は学校に行く時は僕の自宅前に待機している。呼鈴も鳴らさず、ただ僕が出てくるのをひたすら待っているのだ。ボタンを一つ押せばいいだけの話だが、彼女なりに変に気を使っているようだ。そんな気遣いはいらないといつも言っているが、なかなか分かってもらえない。
僕がうっかり寝坊をしてしまったら彼女も道連れで遅刻してしまう訳だ。だから僕は朝寝坊をしないように毎日、目覚ましが鳴ったら起きるように心掛けている。いや、眠い身体に鞭を打って必ず起きる。変に気を使っているのはどちらなのか分からない。
彼女の名前は冬月沙夜。身長は百六十センチ。髪は黒髪のセミロング程の長さでストレート。顔はどこにでも居そうな童顔でメガネをかけている。全体的に見た目は普通で真面目なイメージである。そう、見た目だけの話。
「おはよう。元気か?」
「はい。おはようございます。私は元気です」
と、沙夜は言葉とは裏腹に無表情である。顔は元気そうに見えない。
「相変わらず堅苦しい喋り方だな」
「いいえ。そんなことはありません」
「あ、そう。まぁ、いつものことか」
「はい」
そう、まず変わっているところは喋り方である。相手が老若男女、誰であろうとその喋り方は変わらない。誰に対しても敬語なのだ。彼女は例えるなら英語の教科書の和訳みたいな喋り方をする。
どんなものかといえば主語、述語等しっかりした喋り方だ。お手本のようで分かりやすい。一見、問題なさそうに見えるがその綺麗な言葉使いで大人たちは感心するが、同級生たちにもそのような喋り方をするので変わり者扱いされてしまう。ようは同級生からしたら堅苦しいのだ。まるで社会人が名刺交換するようなぎこちないやりとりを常にしている感じとでも言うべきか。例えになっているか疑問だが、とにかく誰にも対して堅苦しい口調は変わらない。そう、それは僕に対しても同じである。そのせいで彼女には友達はいない。いつも学校では一人で過ごすことが多かった。そんな彼女の理解者である僕は極力、彼女を一人にさせないように傍にいることが多い。世話役を頼まれたのは小学校からであり、高校に入った現在も変わらずに傍にいる。ちなみに一緒の高校に行く為に僕は彼女と同じ進路を選んだ。どちらかと言えば彼女が僕に合わせた感じでお互いが同意の上で決めた。学校は地元から近く、自転車で通える距離に位置する。高校の偏差値は平均だろう。
「じゃ、学校に行こうか」
「はい。行きましょう。今の時刻が七時四十五分なので、このまま自転車を走らせれば間に合うでしょう」
「うん。そうだね」
分かりきった解説を丁寧に言うところも彼女の変な癖である。まさに英語の教科書の和訳である。
高校入学から数週間。周りではまだクラスメイトと馴染めていない頃合いだろうか。そんな中、一人のクラスメイトが僕に声をかけてきた。
「おう、太陽。おはようさん」
ちなみに僕の名前は夏宗太陽。『太陽』と書いて『ひろあき』と読む。
今流行りのキラキラネームのような名前であり、周りから面白がられて多くのクラスメイトと交流している。元から喋りやすいキャラである僕としては誰とでも気軽に喋れるのでクラスメイトと打ち解けるのに時間は掛からなかった。
「どうしたお前。あくびばかりだな。大丈夫か」と僕は眠そうなクラスメイトに声をかけた。
「いやー、昨日眠れなくてさ」
「何してたんだよ」
「新作のゲームをやり込んでいたらいつの間にか、朝になっていたよ」
「へー」
とまぁ、ここまでは学生であればよくある話である。
「あなたは睡眠を十分に取らなければなりません」
クラスメイトと他愛のない会話をしていた時、横から沙夜が割り込むように言った。
「何故なら、睡眠を取らなければ人間は体調不良や集中力の低下などの現象が起こり、更には身体だけではなく精神的にも影響を及ぼすリスクがあるからです。よって、本来の実力が発揮出来ません。このままではあなたは倒れることでしょう」
「ご、ごめんなさい。気を付けます」
と、反射的にクラスメイトは沙夜に謝ってしまった。
「バカ! 何、脅しているんだよ」
僕は沙夜を軽く小突く。
「言っている意味がよく分かりませんでした。私は脅しているつもりはなく真実を述べているだけであり……」
「あー分かった、分かった。もういいから。あっちに行こうね」
面倒くさくなりそうだったので僕は沙夜の口を塞ぎ、無理やり会話を辞めさせた。
そんな訳で冬月沙夜という彼女は面倒くさいのだ。
高校デビューというやつで少しは変わってほしいところであるが、彼女のキャラはずっとこの調子だ。隣でずっと見てきた僕としては当たり前になってきたが、時々厄介な場合がある。そんな冬月沙夜の行動を振り返ってみようか。
シーン一。数学の授業。
「えーと。じゃ、この問題を冬月」
数学の教師、鈴木は沙夜に問題を振る。
「はい」
黒板に計算式と答えを書く込む沙夜。その動きに迷いはなかった。
沙夜の成績は優れている。真面目で優等生なのだ。昔から勉強は出来るし、涼しい顔で問題を解くところは嫉妬したいところだ。
「うん。正解。よく出来たな」
「何故なら私は昨夜、今日の為に予習をしていたからです。事前の準備をしたことで私は今の問題に正解することができました」
「そ、そうか。戻っていいよ」
鈴木はテキパキと返されたことで返す言葉がない様子である。
そう、勉強は出来るが喋らなくていいことを言うところがたまに傷だ。誰もその情報はいらないと言うことを明確に言うのが沙夜なのだ。
「じゃ、次の問題を……そうだな。夏宗。解いてみろ」
「い! 僕っすか」
鈴木の予想外の振りに僕は内心焦る。クラスの前で恥を掻きたくない。その問題は僕には解けなかった。絶体絶命と言える。
「答えはこれです」と、小声で沙夜は問題の計算式と答えを紙に書いて教えてくれた。
まさかの助け舟に僕はお礼を言って堂々と答えを黒板に書いた。
「うん。正解。よく出来たな」
「何故なら、私がその問題の答えを彼に教えたからです」
「そんなこと言わなくてもいいから!」
と、沙夜は教室内で暴露し、結局僕は恥を掻くことは避けられなかった。
シーン二。美術の授業。
「今日の課題は学校の風景の模写を描いてもらいます。自分の好きな場所でデッサンをして下さい」
と、美術の教師、竹宮は課題を出した。
「はー風景か。面倒だな。どうせなら女体をデッサンした方が萌えるよな。特におっぱいとか」
と、クラスメイトはぼやく。
「確かに」と僕は同意する。
「私の近くで下品な発言を言うのは控えていただけるとありがたいです。何故なら、私はまだそのような経験がなくその話題に慣れているとは言えないからです」
と、沙夜は睨め付けるように言う。
「ご、ごめんなさい」
何故か反射的に謝るクラスメイト。今回は間違いなく脅している。ある意味、女子代表で沙夜が言っているのかもしれない。
「あなたは何を描いているのですか?」
と、沙夜は僕に質問する。
「テニスコート。殺風景で楽に描そうだから」
「非常によく出来た絵です」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「そっちは何を描いたの?」
「はい、私は校庭を描きました」
と、沙夜は絵を見せた。
「これはサッカーゴール。これは鉄棒。これは野球場。これは……」
「ストップ! 説明しなくても見れば分かるよ。それにリアルに上手いな、お前」
「ありがとうございます。一生懸命描きました。それに対し、あなたは上手とは言えず何を描いているのか分かりませんでした」
「さっき非常によく出来た絵って褒めてなかった?」
「申し訳ありませんでした。あれは嘘です。心にないことを言ってしまったと私は反省します」
と、沙夜は頭を下げる。
「もういいから」と僕の心はズタズタにされた。
シーン三。体育の授業。
本日の内容は体力測定。男女共に各種目別に数値測定する。
二十メートルシャトルランの出来事であった。
有酸素運動能力に対する体力測定である。
体力に自信がある僕は百回を軽く超えていた。ちなみにこの測定に制限時間は存在しない。自分の体力が尽きたその瞬間が終了の規定だ。
「ハッ、ハッ、ハッ……苦しい」
ちなみに周りで走っているのは僕を含めて体育会系の五人だけ。僕もそろそろスタミナの限界だった。
「もう、ダメ」
僕は百十五回目で転がり落ちた。
「あなたはゴールしました。おめでとうございます」
沙夜は僕に向かって言った。
「ありがとう」
「あなたは何か飲みますか?」
「うん。飲む」
「あなたは次の中から選ぶことができます。水道水、麦茶、ポカリスエット、炭酸飲料、コーンポタージュ」
「どれでもいいから持ってきて。但し、コーンポタージュだけは辞めてくれ」
「分かりました。」
そして、結局僕は麦茶を貰った。
次は沙夜が走る番であった。周りの人が次々とリタイアする中、沙夜は一人で走り続けた。しかも無表情で。
百回を達成したと同時に沙夜はリタイアした。
「おう。お疲れ」
「はい、私はとても疲れています」
と、言いつつ沙夜は息切れ一つしていなかった。尚も無表情だった。
「もしかして、まだ続けようと思ったらいけたんじゃない?」
「いいえ。私は己の限界を感じたので挫折しました」
「ふーん。そう」
「はい。そうなんです」
百というキリが良い数字で疑問を感じたが、沙夜は果たして本当に息切れしているのか僕が確かめる術はない。
すると沙夜はその場で崩れ落ちた。
「お、おい!」
沙夜は気絶していた。無理をした結果である。
後から分かったが、自分で決めた数字を達成すると心に決めていたのはいいものの自分の思いと身体が一致していなかったことが原因だった。せめて身体を優先させて欲しいと思う。
シーン四。昼休み。
僕は友達と一緒にお昼を食べようと誘われるが、沙夜の世話役がある為、お昼は沙夜と食べる習慣漬けが付いている。
「いただきます!」
「いただきます」
「いやー。身体を動かした後の飯は美味いね」
と、僕は無理に会話をする。
「はい。とても美味しいです」
「いつも誰が弁当を作っているの?」
「はい。いつも私の母が早起きをして家を出るタイミングで手渡しをしてくれます。中身は肉団子、卵焼き、春巻き……」
「うん。分かったから。見れば分かるよ」
沙夜はどこまでも律儀に説明口調になる。
「それでは私はデザートの林檎を食べようと思います」
弁当を食べ終えた沙夜は弁当とは別にタッパーを取り出しながら言う。
「デザート? 食べきれるの?」
「はい。大丈夫です。何故なら私の腹部に別離している部分があるからです」
別離? 僕は一瞬考えて別腹であることを解釈する。
「しかし、母からは誰かと正当な出し分をするように言付けられています」
「ん? Shareするってこと?」
「はい。よってあなたにこの林檎を差し上げることとします」
「ありがとう。有り難く貰っておくよ」
僕は一切れの林檎を取って口に運ぶ。
「うん。美味しいよ」
「お粗末さまでした」
シーン五。午後の授業。
「……で、あるからしてこのようになります」
社会の教師、飯塚は教師の中で怖いとされている。授業態度が悪いと何をさせられるか分からないほど緊張が絶えない授業だった。実際に授業中にスマホのゲームをしていた者は生徒指導室に連行された事例もある。
そんな時、僕は睡魔と戦っていた。午後になると眠くなるのはよくあること。しかし、実際に眠ることはできない。
まずい。瞼が重くのしかかっている。このままでは僕の名誉に反する。何か対策を打たねば鳴らぬ。僕は自分の頬っぺたを抓ったり、叩いたりして正気を取り戻そうと頑張る。だが、まるで通用しない。
「先程からあなたの様子がおかしいのですが、何かあったのですか?」
小声で沙夜は僕を気にかけた。席が真横だったので目に入ったようだ。
「いや、凄く眠くて眠りそうなんだ。なんとか目を覚ましたいんだが」
「はい。私はあなたが起きていられるように努力しましょう。では一つ。あなたが小学校六年の修学旅行の時、こんなことがあったのを記憶しています。女子の部屋に忍び込もうと仲間と共に行動したあなたは、先生に見つかりそうになり私の布団に潜り込んで……」
「起きた! もう目覚めたからそれ以上は言うな!」
「コラ! 夏宗! うるさいぞ。ちょっと生徒指導室に来い!」
結局、僕は授業の妨害をした罪として生徒指導室に連行されてしまった。
以上のことから分かっていただけただろうか。冬月沙夜が変わり者であると言うことが。
そんな訳で僕は毎回のように手を焼いている。しかし彼女は悪気があってやっている訳ではない。普通の人であればお手上げになるだろうが、小さい頃から傍で付き添っている僕としたらもう慣れっこである。この程度で世話役が務まらないようであれば長く続けることはできない。
「ねぇねぇ、夏宗君。少しいいかな?」
そのように話を振ってきたのはこのクラスの室長(学級委員のようなもの)である春風桃華だった。愛想が良く誰とでも話せる人柄で笑顔が輝いて見える可愛い子である。僕が少し気になる存在だ。
「ん? どうしたの?」
あくまで平常心で答える。女の子と普通に話せるのは沙夜を置いて他にいないので内心緊張気味だった。
「夏宗君って冬月さんと仲がいいよね?」
「うん。まぁ」
「どういう関係? 中学からの同級生だったりする? もしかして二人は付き合っていると私は推測しているんだけど、実際どうなの?」
何も事情を知らない者から見れば付き合っているように錯覚するだろう。しかし、断じてそれはない。僕と沙夜の関係は世話をする者とされる者である。沙夜を一人歩きさせると何が起こるか分からない。なので、いつも僕の目の届く範囲に置いているに過ぎないのだ。
「ただの幼馴染だよ。恋愛感情があっていつも傍にいる訳じゃないよ」
「ふーん。そうなんだ」
と、春風は納得していない様子だった。まぁ、無理もない。
「まぁ、それはいいとして夏宗君に頼みたいことがあるんだよね」
「頼みたいこと?」
「うん。一応私はクラスのまとめ役だからさ、クラスメイトとは交流を深めたいと私は考えている訳。そこで私は冬月さんと仲良くなりたいんだ。だから協力してよ」
「協力って僕に何をさせたいの?」
「そうだなぁ。とりあえず仲良くする演出を考えたからちょっと耳貸して」
僕は春風の作戦に頷き、渋々承諾した。
「なぁ、沙夜。ちょっといいかな?」
「はい。なんでしょう?」
放課後、僕は帰宅の準備をしている沙夜に向かって言葉を投げかけた。
「そういえば、部活は入らないのか? 先生が今月中に決めるようにって言われているからさ。どうなのかなって」
「私は部活動には興味がありませんのでこのまま帰宅部になろうかと思っています」
「興味がない? なんで?」
「私は自分の進行度に則って学校生活を送りたいからです」
「進行度? あぁ、自分のペースってことね。でも、学校生活で友達がいないのはつまらなくないか? 現に話し相手は僕以外にいない訳だし。だったら部活動をして交流を増やしていけばより良い学校生活が送れると思うんだけど」
そのように言うと沙夜は難しい顔をして考え込んだ。
「はい。確かに一理あります。しかし、私に向いた部活動が思い浮かびません」
「中学の時、美術部にいたじゃん」
「あれは仕方がなく入っていただけです。中学時代は必ず部活動に入らなければならない決まりがありました。やりたいと思って入った訳ではありません」
「じゃあさ、まだ体験入部期間だから見学に行こうよ。それから決めればいいさ。僕も行きたいところがあるから一緒に行かないか?」
「はい。そういうことでしたらお付合いします。それで何部でしょうか」
「着いてからのお楽しみ」
「ようこそ! 我が演劇部へ! おやおや? 誰かと思ったら同じクラスの冬月さんと夏宗君ではないか。よく来てくれたね。私のこと分かる?」
春風はわざとらしいリアクションで出迎えてくれた。ちなみに春風の作戦は沙夜を演劇部に入部させて交流を深めるというもの。興味を引く為にあれやこれやと企てていくというがその内容については知らされていない。ちなみに僕の仕事はここに連れてくることと春風の発言に共感することである。
「春風桃華。出席番号二十八番。同じクラスの室長です」と沙夜は言う。
「おぉ! 私のこと知ってくれてて嬉しい」
「同じクラスの顔と名前は認識しています」
「それなら話は早い。ねぇ、冬月さん。私と一緒に演劇やらない?」
「お断りします」
ストレートに誘ってストレートに断られた場に一瞬、静まり返った。
「えぇ、どうして?」
「私には演劇をするには荷が重いと判断したからです。何故なら私は自分の感情をうまく表現できない為、演技をするには乗り越えなければならない障害が大きいからです」
そう、沙夜の言う通り、彼女は自分の表現が上手く表せない。その為、たとえ演技だろうと感情を出すことは困難と言えるのだ。僕はこの展開が予め読めていた。
「冬月さんはそれでいいの?」と、春風は意味有り気に言った。
「どういう意味でしょうか?」
「ずっと自分の感情を出さずに高校生活……いや、人生を終わらせてしまうの? そんなの寂しいじゃない。少しでも克服したい気持ちがあるのなら一緒になって克服していかない? 私は協力するよ」
ここまで真剣に沙夜と向き合ってくれた人はいない。沙夜の心が開こうとしているかに見えた。
春風の言う通り、これをきっかけに沙夜も変わってくれたら僕としても助かる。自分を変えると言う意味では演劇部は最適な選択である。感情を出してそれを観客に見てもらうとなれば嫌でも変われると思う。
「沙夜。やってみないか? ここなら友達も作れるだろうし、自分を変えるチャンスだと思うぞ」と、僕は背中を押す。
「しかし、私では皆さんに迷惑をかけるので」
沙夜は拒んでいた。まだ押しが弱いのだろうか。
「あ、っと……迷っているようなら後日、返事を聞かせて。強制はしないからさ」
春風は気を使って言った。押してダメなら引いてみると言うことだろうか。
しかし、ここからどのように引き込むのだろうか。春風の作戦は続くと思うが、僕は知らされていない。
「はい。すみません」
「いいって、いいって。そうだ! 去年先輩たちが文化祭でやった劇のDVDでもみて欲しいな。私も観たけど、凄いんだよ」
春風はDVDをビデオデッキにセットして僕たちを椅子に座らせて映像を流した。
劇の内容は『浦島太郎』である。所々オリジナルがあるが、白熱の演技で楽しく鑑賞することができた。視聴した僕たちは春風にお礼を言って部室を後にした。
「DVDどうだった?」と、僕は帰り道、沙夜に聞いた。
「はい。大変素晴らしい劇でした」
「僕も同感だよ」
「ただ、一つ気になる点がありました」
「気になる点?」
「はい。竜宮城のお姫様。おそらく彼女は代役だったと思います。何故なら言葉と行動に切れがありませんでした。一番大事な場面で演技不足はまずあり得ません。そこで独自の演技を即興で挟んだと推測します」
「あぁ、だからオリジナルのシーンがあった訳か。でも、どうして代役なんかで本番を迎えたんだろう」
「理由ならいくらだって考えられます。当日の体調不良、本番前の緊張に逃走、通学前の事故。何かしらの問題が起きたことは確実と言えるでしょう」
「それはいいとして、実際に部室に行ってみて入部は視野に入れているの?」
「その件に関しては……」
と、沙夜が言いかけたその時、沙夜は立ち止まってある方向を直視した。
「どうした?」
僕は沙夜の見ているものを一緒になって見る。そこは公園で学ランを着た中学生三人組の姿があった。石を投げている様子である。その標的に僕は声をあげそうになった。
その標的は猫である。木に登って降りれなくなった猫に向かって石を投げているのだ。
「ニャー」
「アタリ! でも威力が弱いから落ちないな。次は俺が打ち落としてやるよ」
と、誰が先に猫を木から落とすかのゲームをやっている様子である。
「あいつら!」
僕が止めに入ろうとしたその時、沙夜が中学生の元に走っていく。
向かっていく中、落ちている石を拾い上げて投げるフォームをする一人に向かって沙夜は石を投げた。見事にその一人の背中にクリーンヒットした。
「痛っ!」
石を投げつけられた中学生は沙夜の姿を捉えた。
「いてぇな。何すんだよ。コラ!」
投げつけられた本人はかなりお怒りの様子だ。
「お言葉を返すようですが、それはこちらの言葉です。何故なら今の痛みの叫びは猫も同じ感情だからです。きっと猫は痛いと言っています」
「はぁ? 猫が喋るかよ。ゲームの邪魔をするなよ。こっちは千円かかっているんだからな」
と、理不尽にも中学生は自分の都合を主張した。
「あなたたちがゲームをするのはご自由ですが、猫を巻き込むのは違うのではと私は感じます。何故なら……」
「うるせぇ! お前みたいな地味女に関係ないだろうが! さっさと失せな!」
沙夜よりも年下の割には威勢が凄まじかった。中学生は特に反抗的な態度であり、自分より年上は敵だと思い込んでいる年頃である。下手に刺激を与えると何を仕出かすか分からない。しかし、猫を置き去りにできない状況に僕は悩んだ。それは沙夜も同じだろう。
ふぅーと大きく深呼吸をする沙夜。僕は嫌な予感がした。
「地味女とは私のことでしょうか?」
「他に誰がいるんだよ」
「この場に女は私しかいません。よって地味女とは私のことを指しています」
「分かったなら消えな」
沙夜は背負っていたリュックサックを投げ捨てた。投げ方が完全に怒っている。
「……沙夜?」
沙夜は僕を見向きもしない。真っ直ぐと中学生三人に視界を捉えている。
沙夜は真っ直ぐと三人の元に向かっていく。一体何をするのかまるで分からない。
「な、なんだよ」
沙夜は一人の前に立ち止まった。完全に沙夜が弱く見えるが、沙夜は全く怯まない。
そして次の瞬間、沙夜は男の手首を強く握った。手に握られていた石が足元に落ちた。
「今すぐ辞めて下さい」
その口調は丁寧で落ち着いているが、とてつもない殺気を放っていた。
「ぶっ殺してやる!」
サイドにいた仲間が興奮したように援護をする為、沙夜に殴りにかかる。
「沙夜!」
沙夜は華麗に攻撃を交わし、腕を後ろに回し相手を地面に叩きつけた。馬乗りになり、動きを封じた。
「痛い!」
「私に攻撃を仕掛けたら腕を折ります。あなたたちの選択権は二度とこのような行為をしないと誓うのみです」
二人の仲間は怯んだ。手を付けれない状況である。
「お前ら! 早くなんとか……っが!」
「口を開かないで下さい」
沙夜は力を加え、制圧する。
「沙夜! 辞めるんだ!」
僕は止めに入る。
「お前ら、もうこんな悪ふざけなんかするな。分かったか」
仲間の二人は何も言わず、公園から逃げ出した。
「沙夜! その手を放すんだ」
「なんで逃したのですか? 私はまだ誓いの言葉を聞いていません」
「もういいだろう。いいから早くその手を放すんだ」
「…………」
沙夜は一行に手を放そうとしない。
「沙夜!」
僕は無理やり手を放させた。その拍子に中学生は仲間の後を追うように逃げ出した。
「そこまで痛めつける必要はないだろう」
「しかし、こうでもしない限り、相手は分からないはずです。何故なら、人は恐怖を与えたら同じ誤ちはしない生き物だからです。よって、私は痛みで恐怖を与えることにしました」
「やりすぎだ。そこまでしなくても彼らはちゃんと分かったはずだ」
「『はず』では判断できません。確実に与えることが得策です」
こうなった沙夜は一歩も引かなかった。自分の判断が正しいと思ったら何がなんでも貫くところがある。僕の役目は暴走してしまった沙夜にブレーキをかけてあげること。
「それはまた今度だ。今は猫を助けよう」
「そうでした。私に任せて下さい」
そう言って沙夜は木登りを始める。スカートの中が見えようがお構いなしに猫のいる枝まで登っていく。
「おい! 沙夜、パンツ見えている。それに落ちたらどうするんだ。そういう役目は僕がやるから降りてこい」
「来なさい! 猫!」
僕の言葉が耳に届いていないのか、沙夜は猫を手招きしながら近づく。対して猫は「シャー」と鳴きながら警戒する。沙夜の無表情な顔に猫は後ずさりをする形になっている。
「言うことを聞きなさい」
沙夜は蛇のように上体を左右に動かしながら絶妙なバランスで猫に近づく。
「観念しなさい」
沙夜は飛びつくように猫を掴んだ。その反動で枝に重心が加わり折れてしまい、沙夜と猫は地面に真っ逆さまに落ちていく。僕は沙夜の着地地点に向かって身を投げた。
「痛……くないです」
「痛いのはこっちだよ」
僕は背中で沙夜を受け止めた。
「一つ言わせて下さい。私が怪我一つせずに済んだのはあなたのお陰です。ありがとうございました」
「そう思うんだったら早くそこをどいてもらえると助かる」
「はい。これは失礼致しました」
ともあれ、沙夜が無事で何よりだ。
「ところでその猫は野良なのか?」
「いいえ。この猫は飼い主がいます。何故なら首輪をしているからです」
「そうか。解き放ったら自分の家に帰れるかな?」
「ここから歩いて十分ほどの距離にこの猫の飼い主がいます」
「なんでそんなこと分かるの?」
「何故なら首輪の裏に住所が記載されているからです。よって今から私はこの猫を飼い主の元に届けようと思います」
「そうか。なら付き合うよ」
記載された住所の前にたどり着くと白を基準とした一軒家だった。高そうな外見にどんな金持ちが住んでいるのか興味が湧いた。表札には『harukaze』とローマ字で彫られていた。
「はるかぜ?」と、僕は聞き覚えがある名前に疑問を持つが、沙夜はお構いなしに呼び鈴を押した。
「ピンポーン」と鳴り響くチャイムにインターホンから応答があった。
「はい。どちら様でしょうか?」
インターホンから聞こえたのは若い女性の声だった。
「あ、えっと。僕たちここの住所が記載された猫を届けに来たのですが」
「…………」
「……えっと、あの」
「その猫は三毛猫ですか?」
「ええ。茶色と黒と白が混ざり合った三毛猫です」
「少々お待ちください」
そこでインターホンが切れた。
「ミケフィーユちゃん! どこに行っていたの?」
扉から勢いよく出て来たのは髪を縦ロールに巻いた女性だった。若作りをしているがおそらく四十代前半と推測した。
「ミケフィーユちゃん?」
僕は猫の名前にドン引きだった。なんだ、その美味しそうな名前は。
女性は僕に目も呉れず、沙夜が抱きかかえている猫に向かっていく。
「あー良かった。無事に帰って来たのね」
猫は飼い主の懐に収まり、ご機嫌な様子である。
「どうもありがとうございました。お礼をしますのでどうぞ上がって下さい」
女性は家に招き入れる。
「いえ、お構いなく。僕たちはもう帰りますので」
「そう言わずに。ミルフィーユがあるので良かったらどうぞ」
「ミルフィーユ?」
ここで沙夜は食い付いた。沙夜は大のミルフィーユ好きである。食べれると聞けば目が輝く。と、言ってもメガネが光るだけなのだが。そんな訳で僕たちは家の中にお邪魔することになった。
「あら、うちのミケフィーユちゃんにそんな酷いことをする人がいたの?」
「はい。でも、もう二度とそのようなことがないように僕が注意をしておいたので大丈夫です」
「このミケフィーユは……失礼。このミルフィーユはとても美味しいです」と、沙夜は言い間違いを訂正した。
「ありがとう。でもミケフィーユちゃんは食べても美味しくないわよ」
返事をするように猫は「ミャー」と鳴いた。
それはいいとして、僕は数々の家具を見てどれも高価そうなことが気になった。
「そういえば、この家はかなり豪邸ですが、どんな仕事をされているのですか?」
沙夜は僕が気になっていたことを質問していた。沙夜は思ったことをすぐに口に出す子供のような一面があるので横にいる僕はそわそわしていた。
「ん? あぁ、うちの旦那は遊戯施設の経営をしているの。近所にあるボーリング場やカラオケ店はうちの経営施設ですよ」
「それは興味深いです。私もそこにいる猫さんに生まれ変わりたいです」
それはつまりお金持ちの子(猫)になって有意義な生活を送りたいとでも言いたいのだろうか。女性はツボに入ったのか、笑っている。
「そういえば、その制服、うちの娘と同じ学校よね?」
「そうなんですか?」と、沙夜は首をかしげる。
「えぇ、もうすぐ帰ってくると思うけど……」
その時、玄関の方から「ただいま」と声がかかる。
「噂をすれば。ちょっと待っていてね」
すると、すぐに顔を覗かせる女子高生の姿があった。
「あれ? 冬月さん、夏宗君。どうして家にいるの?」
現れたのは春風桃華だった。
「あ、ここって春風の家なんだ」と、僕は驚いた。いや、家に入る前になんとなく察しついていたが、あえて知らないフリをした。
「ここが私の部屋だよ。どうぞ、遠慮せずに入って」
春風は僕たちを自分の部屋に通した。ピンクの柄に可愛いぬいぐるみが飾ってあっていかにも女の子の部屋という感じだった。
「うちのミケフィーユの件、ありがとう。おかげで助かったよ」
「あの美味しそうで変な名前を付けたのはあなたですか?」
「おい! 沙夜」
突発で失礼な質問に僕は静止させた。
「あぁ、やっぱり変だよね。あれはお母さんが付けたの。三毛猫とミルフィーユをかけてミケフィーユ。でも、あの子、お母さんにしかあまり懐かないんだよね」
「そうなんだ。それにしても春風の家ってお金持ちなんだな。びっくりしたよ」
「んん、そうでもないよ。私は普通の暮らしで良かったかな」
嫌味とも言えるような発言が気に障ったが、僕は何も言わなかった。
「そういえば、春風はなんで演劇部に入ろうと思ったの?」
「単純な理由なんだけど、中学の時にお父さんに歌舞伎の公演を観に行ったのがきっかけなの。演技がもの凄く上手くて私もあんな演技をやりたいと思ったのがきっかけなの」
「そうなのか。じゃ、将来は主役を狙っている訳だな」
「うん。そうだね。うちの学校は最近になって演劇部ができたからまだ賞は取れていないけど、私たちが一丸となって取っていけたらいいなって」
「そっか。じゃ、これから頑張らないとな」
その時だった。
バタン! と下から大きな物音が鳴り響いた。そして次の瞬間、男性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「え? 何?」
「あちゃー。また始まったよ」
春風は頭を抱えながら言った。
「ごめんね。うちのお父さんとお母さんは顔を合わせるといつも喧嘩しているの。せめて友達がいる前ではやめてほしいんだけど」
「あなたのお父さんとお母さんは何故、仲が悪いのですか?」
沙夜は何の前触れもなく聞いた。僕は空気が読めない沙夜に口を塞ぐ。
「あぁ、いいのよ、夏宗君。実はうち、お金のことで揉めているの。お父さんが主に稼いでくるんだけど、お母さんはそのお金を好き放題使っているの。高級品が新たに置いてある度に大喧嘩。どっちも引こうとしないから困っているのよ」
「そうだったんだ。それは大変だね」
「うん。私的には二人には仲良くしてもらいたいんだけど、どうしたらいいか分からないんだよね」
春風は大きな溜息を吐いた。ここ最近の悩みではなく長期に渡って悩んでいる様子だった。そんな時、沙夜は突如、立ち上がった。
「沙夜? トイレか?」
僕はなんとなく嫌な予感がした。
「私がその気持ちを代弁して二人の仲を取り持ちます」
そう言った沙夜は部屋から出て行く。
「待て、待て、待て。部外者のお前が安易に踏み込んでいいところじゃないだろう」
僕は沙夜の左腕を掴んで静止させる。
「しかし、彼女は困っています。このまま放置をしていたら最悪、離婚して転校をすることになるでしょう」
「だとしてもそれは僕たちにはどうにもできない。だから……」
「放っておくと?」
僕は言い返せなかった。それも一つの選択として仕方がないこととは春風の前では言えなかった。
「もう我慢の限界だ。これ以上、俺の金で好き勝手するようであればお前なんかと離婚だ!」
「そんなの無理に決まっているでしょ。桃華だっているのよ。今更出来る訳ないじゃない!」
「桃華は俺が引き取る。お前は猫と共に出ていけ!」
「なんですって⁉ ふざけんじゃないわよ。こうなったら」
そこで僕たちが見た光景はお母さんがナイフを持ち、お父さんがゴルフクラブを持っていて膠着した状態だった。その中心に沙夜が立ち塞がるように前に出た。
「そこまでです。武器を放して話し合いましょう」
「き、貴様! 何者だ。勝手にうちに入り込んで」
僕たちの経緯を知らないお父さんは興奮がエスカレートしていた。
「私は冬月沙夜。春風桃華さんのクラスメイトです。まずは武器を捨てて下さい。話はそれからです」
「部外者が他所の家庭の事情に入り込むな! 目障りだぞ!」
「もう、辞めて二人とも!」
春風は涙声で訴えた。それにより場の空気が凍りついた。
「二人で仲良くしていこうよ。どうして喧嘩ばかりしかできないの? 私は二人を見ているのが辛いよ」
「桃華……」
二人の親は顔を見合わせた。
子供に言われてしまったことで冷静さを取り戻したようだ。
「理由はどうであれ、武器を持った時点で悪者になるのでやめたほうがいいでしょう。では話し合いましょう」
何故か他人の夫婦喧嘩に沙夜は仕切り出す。だが、誰も怒る気力は起きず、素直に聞き入れていた。
「見苦しい姿を見せちゃったね。この件については内緒にしといてもらえるかな」
家の外まで見送りをしてくれた春風は申し訳なさそうに言った。
「勿論だよ。それより本当に両親は大丈夫なのか?」
「まぁ、言いたいことを言い合った訳だし、改善することは出来るよ。私もどっちかの味方にならないように口を挟むことはしなかったけど、今後はお互いの意見を聞きあって仲を取り持つよ」
「そっか。仲良くなれるといいな」
「させてみせるよ」
「一つよろしいでしょうか?」
ここまで黙っていた沙夜は口を開いた。
「何?」
「あなたのことが興味深いと感じました。演劇部の入部をしてもよろしいでしょうか?」
「バカ! まずは謝って……って」
「本当に? 私と演劇部に入ってくれるの?」
「はい。自分自身の克服も長年の課題であり、直したいと思っていました。それと、あなたとは良い友達になれそうだと勝手ながら判断してしまいました」
「全然良いよ。わぁーありがとう。これからもよろしくね」
春風は沙夜の両手を取って上下に揺らした。
「いえ。ただ、一つ条件があります」
「条件?」
春風は首を傾げる。すると沙夜は僕の方に振り向いた。
「あなたも一緒に演劇部に入って下さい。私はあなたがいないと不安です」
「なっ!」
愛の告白のような発言に僕は驚く。
「だって。夏宗君。ここは一つ頼まれてくれないかな?」
春風は小動物のような眼差しで僕を見た。勿論、それは予測がついていた。僕が一緒に入らないと何も始まらない。だって僕は沙夜の世話役なのだから。
最初のコメントを投稿しよう!