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プロローグ(1)
月は霜月に移行した。山間の盆地に位置するこの町では、夜半時ともなれば、空気は凍えて静まり返る。
その老爺は、背中を丸めて夜道をとぼとぼと歩いていた。皺と節の目立つ手には、愛犬をつないだ鎖を握っている。
本当なら、老爺だって、こんな遅い時刻に犬の散歩などしたくなかった。近頃なにかと物騒だし、そうでなくとも冷たい風が神経に障る。
しかし、犬がキャンキャン吠えて催促をするのだから仕方がない。近所の住人からは、毎日のように苦情が出ていた。
「今度夜中に、あんなうるさく吠えやがったら、すぐに保健所に電話してやるからな!」
老爺は、うつむきながら謝るほかなかった。妻には先立たれ、子供たちは子供たちでそれぞれの生活を送っている。自分の家族と呼べるのは、この馬鹿な雑種犬だけだ。こいつを失ったら、自分は一人ぼっちになってしまう。そんな心細いこと、とても耐えられるものではない。
老爺の寵愛を一身に受けている犬のコロは、そんな主人の気も知らないで、足取りも軽く歩を進めている。時々振り返っては、ご機嫌をうかがうように老爺の顔を見上げる。
そんな仕草を見ると、老爺はついつい微笑んでしまう。隣に住む定職も持たない暴力男にいくら怒鳴られても、コロが忠実な眼差しを一つ投げかけてくれるならば、それですべては帳消しにできるというものだ。
深夜の散歩も、半分ほどの路程に来た。散歩の折り返し地点にしている、この町唯一の駅が見えてくる。老爺は、コロが小便をしている時に、儚い街灯の明かりを頼りに腕時計を確認した。
すでに終電は、到着したあとだった。
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