夜が明ける

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 扉を押すと、チリンチリンと鈴が鳴る。 「いらっしゃいませ」  心地良いバリトンに出迎えられた。  ぺこりと頭を下げてから店内を見渡す。入口から見て奥と右側の壁が全て本棚だ。座席は四人席が一つと二人席が二つにカウンター五席。客は二人席に座っているカップルと、一番奥のカウンター席でパソコンを開いてる眼鏡の男性。  迷わず真ん中のカウンター席に座った。カップルの隣に座る勇気も一人で四人席を占拠する勇気も、持ち合わせていない。 「コーヒーはご用意できませんが、よろしいですか」 「はい、紅茶が好きなので。お勧めはありますか? 看板メニューとか」 「当店の看板メニューはミルクティーです」 「ではミルクティーをお願いします」 「かしこまりました。そちらにメニューがありますので、宜しければご覧ください」  示された先はブックスタンド。インテリア代わりの洋書と思っていたが違った。臙脂色の表紙に金の箔押しで「Menu」とある。  目次から始まり、一ページに一品ずつ飲み物や料理が紹介されている。手書きで。店内全てのメニューがこうなのだろうか。だとしたら、尋常でない凝り具合だ。 「マスター、会計お願いします」  二人席に座っていた男性がいつの間にか、カウンターまで来ていた。 「すみません。今、手が離せなくて……そこに置いといて貰えますか?」 「お、紅茶を淹れてる途中でしたか。申し訳ない」 「何してるの、もう。邪魔してごめんなさい、マスター。今日も美味しい紅茶をありがとう」 「こちらこそ。いつもありがとうございます」  キーボードを打つ音が止まり、二つ隣の席から眼鏡の男性が手を振った。 「二人とも、またな」 「えぇ、また」 「今度も楽しいお話聞かせてくださいね、はじめさん」  手を振って立ち去る女性と会釈する男性。マスターは「ありがとうございました」と言い、はじめさんと呼ばれた男性は軽く手を振った。とても親しげだ。カップルの二人もはじめさんも、常連なのだろう。  ノートパソコンのキーボードを再び叩き出した眼鏡の男性を横目に、メニューを眺める。サンドイッチ、パスタ、ケーキ。どれも美味しそうで決められない。 「お待たせしました。ミルクティーです」  悩んでいるうちにミルクティーとクッキーがカウンターに置かれる。 「クッキーもいいんですか?」 「はい。お茶請けにいつもお出ししています」 「そうなんですね。ありがとうございます」  好きなお菓子はクッキーだと私が話すと、続く言葉は大抵「『アリス』だもんね」だ。有栖としては、彼らに言いたいことは山ほどある。が、面倒になった私はクッキーが好きだと公言することをやめた。  好き嫌いを他人と共有する必要を感じなかったのも一因だ。友人と出掛けた先でクッキーを一緒に食す機会などない。タピオカ、タピオカ、タピオカ。よく飽きないな、と口を滑らしたら誘われなくなった。後悔はしていない。 「いただきます」  静かに手を合わせてからティーカップを持ち上げる。優雅な紅茶の香りとまろやかな口当たり。そして口に広がる蜂蜜のような優しく上品な甘み。これは。 「おいしい、です。とても」 「ありがとうございます」  眉を下げたマスターに微笑み返す。近所にあったら通っていたかもしれない。  電車で片道一時間半の喫茶店は厳しいなぁと算盤を弾きながら、クッキーを口に運ぶ。紅茶を邪魔しない、程よいバターの風味。サクサクの食感。参った。私の好みだ。  頭の中の算盤を少し甘めに弾く。それでも二ヶ月に一度が限度。本の購入数を減らせばなんとか一ヶ月に一度か。  タンッとキーを押す音。勢いが良かったから恐らくエンターキー。音を出した張本人はじめさんはその後数回クリックをして、パソコンを閉じた。 「マスター、いつものサンドイッチお願い」 「了解。仕事お疲れ様」 「ありがとう。……君も、サンドイッチ食べる?」  はじめさんに問われて、メニューから昼食を選び損ねたことを思い出した。どれもおいしそうで決められなかったのだ。 「お勧めですか?」 「うん、旨いよ。卵アレルギーないならオススメ」 「アレルギーはないです。じゃあ、私も、サンドイッチお願いします」 「かしこまりました」  二枚目のクッキーを齧りながら待つことにする。動き回るマスターを眺めて待つのも楽しそうだが、少々不躾に思える。どうしようか。  仕事終わりの男性をそっと盗み見れば、眼鏡越しに目が合った。 「君のことどう呼んだらいいかな、ずっと『君』って呼ぶのもなんだし。おっさんに本名教えるのが嫌なら、あだ名とか」 「あだ名、ですか」  有栖という奇特な名前だ。たまにミステリ好きが名前の由来を当ててくるだけで、ほとんどの人は不思議の国か鏡の国を想像して「アリス」と呼ぶ。別の呼び方を考案する人間とは、この十六年出会っていない。  いや、「アリス」と名乗れば普通はあだ名だと思うのではないのか。 「アリスと呼んでください」 「ルイス・キャロルか。マスターはアリスと聞いて何を思い浮かべる?」 「有栖川有栖先生。ミステリが好きなおかげで不思議の国より先に出てくるよ」 「なるほど」  食材を手元に揃えたのだろう。マスターの足がカウンターに固定され、彼とはじめさんの会話が続く。二人ともアリスが本名だとは思っていなそうだ。思っていても言わないだけかもしれないが、それならそれで構わない。彼らの優しさを享受しよう。  のんびりミルクティーを味わっていると、不意に質問が投げかけられた。 「アリスさんは、どこからいらしたんですか」  最寄駅の名前を口にする。さすがに同じ沿線だ。知っていた。 「結構あるよな。一時間?」 「いや、もう少しあるでしょう。一時間半くらいだったかな」 「正解です。遠くへ行きたいなぁと思ったんですけど、帰りのお金を計算したらここが限界で」 「ささやかな遠出か、いいですね」 「もし、お金があったらどこへ行った?」  はじめさんが眼鏡を押し上げながら問う。お金があったら。  いつか行きたいと思っている場所はたくさんある。好きなものが増えるほど行きたい場所も増えるものだ。でも、お金が潤沢にあると仮定するなら。 「世界一周。体が自由に動くうちに一度は行きたいですね。そんな収入と休暇を貰える仕事に就けるか、わかりませんが」  きっと難しい。それでも、仮定の話では大きな夢を見たいのだ。 「楽しい夢があるのはいいことです。簡単には死ねなくなる」 「いいね、海外は面白い」一拍後、レンズの向こうの瞳が大きくなる。「マスター、死にたくなったことあるの?」 「そこまで深刻ではなかったですけど。大学受験の時はだいぶ落ち込みました」  受験という単語に、体が強張る。 「それは意外かも。マスター、本気で勉強してたんだ」 「生徒会役員を務めるくらいには真面目でしたね。……アリスさん、大丈夫ですか?」 「え」  手から白い陶器が滑り落ちそうになって慌てた。左手の支えが間に合ったためカップが割れることも紅茶が溢れることもなかったが、二人に私の動揺は伝わってしまっただろう。体の強張りに気づかれるとは思っていなかった。 「アリスさん、受験生?」 「いいえ。……高二です。来年、大学受験」  手にしていたフライパンをコンロに置いたマスターと、カップを持ち上げたはじめさん。二人は同時に「あぁ」と納得の声を上げた。 「大学共通テスト。何年前だっけ? 結構前から宣言しといて今更中止かい、って」 「十一月一日に決まった話は共通テストじゃなくて、大学入試英語成績提供システム。ニュースでは四技能とか言われるやつだ。今のセンター試験に英検などの外部試験を導入する話が、延期になった」 「あぁ、そうか。国語の記述もニュースになってたけど、そっちは?」 「足切りの評価に記述は含めないって話かな」 「思い出してきた。あれだ。ずっと問題点指摘されてきて高校生の署名活動とかもあって微妙な状態だったのが、大臣の問題発言でバタバタとドミノみたいに崩れたんだ」 「発言がきっかけかはわからないけど、ね。記述問題は自己採点が難しいとか、迅速な採点のために事前に問題と解答を企業に提供するとか、色々ある。この先もまだ何か変更されるかもしれない」  卵を焼きながら、淀みなく口を動かすマスターに驚く。 「よく知っていますね。当事者じゃないのに」 「自分が住んでる国について知っておいて損はない。とは言え、現場よりは疎いので。間違ってる箇所があったら教えてください」 「そうそう。このマスター、本音も冗談も同じようにペラペラ喋るから」 「冗談は冗談らしく言いますよ」カチッと音がして火が消えた。「少し調べたら情報は入ってくる。はじめくんも、ある程度は把握しているでしょう?」  話を振られた彼はティーカップをソーサーに戻しながら、首肯した。 「まぁね。一年か二年後には選挙権を手にする高校生へこの対応か、って苦い気持ちになったけど。嫌な話題に目を背けるほど子供にはなれないから」  他人の言葉に触れて、言語化できなかった私の感情が明瞭になっていく。  不安、焦燥、憤り、悲しみ、恐怖。  こんな時期になっても準備ができていないことへの呆れ。私が中学生の頃から宣言していた入試改革を一方的に取り下げる理不尽さ。教育関係者の度重なる提言にも高校生の訴えにも耳を貸さなかったのに、大臣の発言をメディアが報じた途端物事が動いたことへの不信感。  もっと前からわかっていたはずだ。この入試改革に無理があることは。なぜ。今になって。ずっと前から「問題がある」と言っていた人もいたのに。遅すぎるじゃないか。  誰かの掌の上で踊らされているようで不快だ。誰かの道具にされているようで不安だ。誰かの食い物にされているようで気持ち悪い。信用できない。何も信用したくない! ──……大人が、嫌いだ。 「どうぞ」  マスターが私の手にハンカチを握らせた。あぁ。これは涙だったのか。  意識した途端、頬を伝って顎へと流れる水滴が増えた。その生温い感触が不気味で、流れ落ちる雫をハンカチと手の甲で必死に拭う。液体の奇妙な温もりが恐ろしかった。  暫くすると手の甲に赤い滲みができた。口の中に血の味が広がる。無意識のうちに唇を噛んでいたらしい。 「泣きたい時は思い切り泣けばいいよ」  背中を摩ってくれる掌が心地よくて、私は、歯と唇の隙間から息を吐き出す。  そして、声を殺すことを諦めた。
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