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「卵サンドイッチです。食べれそうだったら、どうぞ」
白いお皿に乗っているのは、食パンにスクランブルエッグを挟んだシンプルなサンドイッチ。
「いただきます」
一口。もう一口。ふわふわトロトロの卵と軽くトーストされたパン。バターの風味もする。絶妙なバランスだ。おいしい。
三切れのサンドイッチを黙々と平らげて手を合わせる。ご馳走様でした。
満腹になればぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた頭も冷え、周囲の状況も人も見えてくる。私と同じサンドイッチを食べているはじめさん。ポットにお湯を注ぐマスター。カウンターに置かれた黒いハンカチは湿っている。
「取り乱してすみませんでした。マスターのハンカチ、洗って返します」
「いいえ。アリスさんの笑顔を見れて安心しました。ハンカチはお気になさらず」
マスターの指が黒い布を攫った。私の右手は行き場を失って宙を掻く。彼にその気がないならどうしようもない。どうしようもないが、何もせずにはいられない。
……よし。次来る時は、ハンカチをプレゼントしよう。高級ブランドの一万、二万するものは無理だけど二千円、三千円くらいなら私にも手が届く。
「君は、大人が嫌い?」
幻の算盤を弾いてるところに、はじめさんの声。
返答を考える時間を確保するため、カップに残っていたミルクティーを飲み干す。冷えていてもおいしい。考えの纏まる気配がないことを確認して、ゆっくり口を開いた。
「嫌いな大人も好きな大人もいます。好きでも嫌いでもない大人も、たくさん」
冷静に考えればそうだ。全ての大人が嫌いなわけではない。けれど。
「さっきは、いくつもの感情が絡まって、体が勝手に涙を流すくらい言語化が難しくて。混乱した頭は感情の複雑さを『嫌い』という単語に押し込めた。そういう経緯があるから、大人が嫌いかと問われたら答えは『はい』です」
「そっか」
「うん。……これでも、受験に向けて勉強していたんです。そのタイミングで色々発表されて疲れたというか、うんざりしたのかもしれません。こんな大人が考える入試に付き合わなきゃ私は好きな大学で勉強できないんだ、って」
あぁ、いや、違うかも。
「悲しかったのかな。怒っても泣いても辛くても、私たちは口を出せない。決まったことに従うしかない。共通テスト中止のために行動力している高校生も、共通テストに対応しようと予備校で頑張っていた友人も、結局、偉い大人に『こうします』って言われたらそうするしかない。
どんなに足掻いても、行きたい大学の試験が共通テストなら、最後はお偉いさんの言う通りになるしかない。それを、虚しいと思った」
悲しくて。虚しくて。だけど。でも。
「はじめさん、さっき言ったでしょ。私たちはもうすぐ選挙権を獲得する」
卵サンドを食べながら、彼は頷いてくれた。
さっき私が泣いたのは彼のせいだ──は、さすがに乱暴だけど。感情が決壊した原因は彼の言葉。ずっと抱え込んでいた負の感情を表に出せたのは、安心したからだ。はじめさんの言葉に。
数年後の私は、選挙権を片手に堂々と戦える。
「だから、今はたくさん勉強します。大人が私たちの大学受験をどんな形にしようと、私は私の全力を尽くして、第一志望の大学に行ってやりたいことをやる。そして次の選挙で投票する。十代、二十代の投票率を上げて『若者を軽視したら落選しますよ』って政治家に思わせなきゃ。こんなぐだぐだな入試改革、二度とやらせない」
「なるほど。……うん、いいと思う」
はじめさんの弾けるような笑顔につられて、笑みを溢す。
投票しようにも今の私は政治について何も知らない。わからない。基礎の基礎から勉強して、様々な意見を見て聞いて、自分で考えて、少しでも良いと思う人に投票する。たくさんの知識と情報と時間が必要だ。
それでも、投票先を決めるために精査する数年後の私はきっと、必死に訴える高校生をテレビで見るしかできなかった十六歳の私よりずっと素敵だ。
「落ち着きました。マスターも、はじめさんも、ありがとうございました」
「ん」
「お役に立てたならよかったです」マスターが新しいティーカップを置く。「サービスです。ハーブティー、苦手でなければ」
「綺麗ですね、ありがとうございます」
透明なカップに入っているのは鮮やかな青色の液体。美しい海のような、深い青色だ。物珍しくてティーカップを傾けて暫し眺めてしまう。味は、よくわからない。
飲みづらかったらどうぞ、と蜂蜜を置いてくれた。ありがたく頂戴する。色に反して味が薄く、少々困っていた。
「俺も欲しい。バタフライピー?」
「外れ。バタフライピーも青いけどね。はい、どうぞ」
「ありゃ、違ったか。いただきます」
「ゆっくり飲んでください。その方が楽しめる」
一口飲んだはじめさんも首を傾げて、蜂蜜を垂らした。
アドバイス通り少しずつ飲む彼にならって私もゆっくり飲み進める。三口目、とカップを持って気づく。二人でティーカップを傾けるのは寂しくないか。三人いるのに。マスターはマスターだけど、今は他にお客さんもいない。
顔を上げ、レモンを薄く切っているマスターに声をかける。
「マスターも一緒に飲みませんか?」
「……では、お言葉に甘えて」
目を丸くしたのは少しの間。笑ってくれたからこれで良かったのだと思っておこう。
「お、紫になった」
楽しそうなはじめさんの声に、まさか、とカップを覗く。確かに青から紫へ変わっていた。色が変化するハーブティー。
「レモンを入れると、また美しいですよ」
楕円形のお皿にレモンが並んでいる。マスターがレモンを切っていたのは、このためだったのか。
ひとつティーカップに浮かべてスプーンを回すと、紫の液体が淡い桃色へ変わった。「わぁ」と歓声をあげてしまったのは仕方ない。それほど美しかった。桜色だ。日本人なら誰でも馴染みのある、とても美しい色。
「マロウブルー?」
はじめさんがポツリと呟く。
「正解。よく知ってたね」
「本で読んだことがある。別名があった気がするんだけど、なんだっけ」
「夜明けのハーブ」
それだ、とはじめさんが指を鳴らす。
素敵な名前だ。詳しい話を聞きたくてマスターを見つめる。
「青、紫、桜色と変化したでしょう。それが夜明けの空模様のようだ、と」
初日の出なら家族で見たことがある。夕日とはまた違うグラデーションが印象的だった。青、紫、ピンク。夜明けのハーブと同じ変遷だ。
あまり長く入れたら酸っぱくなりすぎてしまうだろう、とレモンをソーサーへよける。改めて見る桜色は、初日の出で見たことのある色のような気もした。
夜明け前が一番暗いと聞いたことがある。一番暗い時間が終わり、希望の太陽が昇る。それが夜明け。そのハーブティーをサービスしてくれた。
(励ましてくれてるんだろうな)
私と目が合うとマスターは薄く微笑んだ。言葉にはしませんよ、ということか。
「……たまに、ここで勉強してもいいですか」
「はい。いつでもお待ちしています」
緩んだ口元を隠すためにティーカップを傾ける。桜色のマロウブルーは、甘酸っぱかった。
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