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「──ただいま」
自宅の上がり框でシューズ紐を解きながら、僕はほとんど無意識的に呟く。 リビングではテレビの音が流れて来ているが、生身の人間の返事は無かった。
きっと聞こえなかったんだろう。
これはいつものことであるかは、僕は何も気にすることなく二階にある自室へ向けて足を運ぶ──その道中でのこと。
僕から見て左手に和室があるのだが、今日は珍しく仕切りの襖が僅かに開いていた。 何の気なしに足を止めて中を覗き見た僕は、ああ、そうかと自分の表情に翳りが生まれるのを感じた。
十畳程の和室の奥には後飾り祭壇が設けられており、僕は上段にある遺影に写るどこか堅い笑みの男性──僕の父親──と目が合った。
鼻先を線香の香りが掠め、一つ息を吐く。
「……ただいま、父さん」
今日で父さんが亡くなってから五年が経つ。
もう五年が経つのかと、改めて父さんの人柄を思い浮かべた。
父さんはこの地域の市民を守る警察官だった。
困った人を放って置けない性格は典型的な正義マンで、近所で父さんの存在を知らない人はいない程、知名度のある警察官だった。
正義マンであったからこそ起きる揉め事を止めに入るのは当たり前だったから、偶に頬に怪我をして帰って来ることが何度かあった。
当人は「今日も派手な揉め事だった」と笑っていたのだが、それは自分が命を落とすことをどこか非現実的に捉えていたからなんだ。
だからこそ父さんが刃物で刺されて命を落としたと聞かされた時、僕は嘘だとばかり思った。
しかし現実はどこまでも甘くなかった。
まるで秒針の針が、少しずつ僕の世界を壊すように。
母さんの泣く声が今でも脳裏に響く。 そんな母さんの後ろで何をするでもなく突っ立っている僕。 ただただ地獄としての時間が過ぎて行くのだ。
──それからだろうか。 僕がこんなになってしまったのは。
僕は父さんの偉大さが自分にもあると思っていた。 が、父さんが亡くなって改めて自分を振り返ると、僕には何の偉大さの欠片も無いことに気付かされたのだ。 ひいては、僕は無個性の価値の無い人間だと──。
「優声、帰ったの」
母さんの声がリビングから届く。
はっと我に帰った僕は「うん」とだけ返事をして、自室へ向かった。
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