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空を覆う雨雲の鈍色が垂れ込むような廊下。 いつもなら聞こえてくるはずの吹奏楽部の音色は、今日は息を潜めるているらしい。 朝と何ら変わりのない雨音の中、私たちは特に会話もなく体育館へ歩みを進める。
食堂よりも奥まった位置にある第一体育館のピロティホールから階段を上がる。 体育館へ通ずる銀色の横開き扉はピタリと閉められているが、中から演劇部の声が漏れ聞こえていた。
練習の邪魔にならないよう慎重に扉を開け、遮光カーテンが締め切られていることで薄暗くなった空間を、放送ブースに向けて歩く。
「ね、なんだかわくわくしない?」
ふと、能鷹くんにそんなことを訊いていた。
子供っぽいと思われるかもしれないけれど、私はこの薄暗い空間が好きなのだ。 きっと、普段ならあまりお目にかかれない様相に、気分が昂っているんだろう。
「……僕は、安心する」
「安心?」
「……近付かないと、僕だって認識されないから」
「ああ、そういう」
匿名性を重視する彼にとっては最もらしい意見だった。
「……でも、これが明るくなると、僕は怖い」
「匿名性が、無くなるから?」
「……そう、だね」
「ね、気になったんだけどさ、能鷹くんが匿名性を気にしたのはどうして?」
「……え」
「ほら、能鷹くんは自分の見る世界を変えたいんだよね。 それなら、自分の名前を公表した方がもう少し周りの変化も著しくなると思ったの。 無論、これは匿名性を批判して言ってるわけじゃないんだけどさ」
私の疑問に、能鷹くんは僅かな逡巡を滲ませて応えた。
「……色々、僕にも考えがあるんだ」
それは、これ以上の詮索を避けるような口調であった。
私は色々の中身が気になりはしたけれど、敢えて深堀はしないことにした。 それよりも先に、放送部ブースに到着したのもある。
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