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一、桜追想
――小さい頃。
周囲からは変わった子どもだと思われていた。
誰もいない場所に向かって手を振ったり、話しかけたり。
虚空を見つめて指を差したりもした。幼稚園の先生の目を盗んで、あやかしたちの世界へ姿を消してしまったりもした。そういったことが何度もあり、先生たちはたいへん手を焼いたのだそうだ。
まだ子どもとはいえ奇妙に見えたのだろう。幼稚園でも友達はおらず、いつも一人で遊んでいるような子どもだった。
何も知らない大人たちは、両親がいないせいだと勝手に解釈し、好き勝手に同情の目を注いだり、関わりたくないと冷ややかな態度を取ったりした。
でも、育ての親である祖父母は自分のことを理解してくれて優しかったし、かわいがってくれたから、寂しくはなかった。
それに、他の人には見えない、人ならざる者たちが遊び相手になってくれていた。妖怪と呼ばれる類の、不思議な存在たち。
関東の山間の小さな村、津雲(つくも)村は、明かりも少なく、田畑も多く自然豊かだ。あやかしの類が都会よりも多かった。
成長するにつれて、自分はますます周囲から浮いた存在になった。自分だけが見えるあやかしのこと、不思議な住人たちが見えること。それは人に告げてはいけない。嘘つき呼ばわりされて、からかわれて仲間はずれにされるから。自分の能力は、人からは忌み嫌われる。いつしか、そう思うようになった。
あやかしたちを嫌い、蔑視し、心からかき消すようになった。二度と、彼らとはかかわらないと決めて――。
町中の高校までは、津雲(つくも)村の祖父母の家を出てから十分ほど歩いて、本数が極端に少ないバスに乗らなくてはならない。なので毎日朝は早かった。
玄関の引き戸をがらがらと音を立てて開けると、早朝の、まだぴんと張り詰めた空気が頬にじわりとしみこんでいった。四月とはいえ早朝は結構寒い。学ランにマフラーを巻いて、志音(しおん)は中へと明るい声を上げた。
「行ってきます!」
いってらっしゃい、いつもと変わらない祖父母の揃った声を聞き、志音は家を出る。
両親がいない志音には、六つ年の離れた大学三年生の兄がいるが、都内で一人暮らしをしているので、今は祖父母との三人暮らしだった。
志音を小さい頃から育ててくれた祖父母。だからこそ、あまり心配をかけたくない。志音はつとめて明るく振る舞うし、祖父母の前ではいい子のままでいようと思っていた。
冷たい空気に花の香りが混じると、バス停が見えてくる。古びたバス停の後ろでは、誰もが目を瞠るような立派なしだれ桜がそびえていた。
樹齢五百年は経つといわれているしだれ桜は、『願い桜』と呼ばれており、そばには小さな祠が建てられていた。願いごとをすると叶う、そういわれているけれど、志音はあまりかかわらないようにしている。
古いものには、魂が宿りやすい。逆に、魂が憑いているからこそ、長い年月が経っても、形をとどめておけるものもある。人々によって祀られ、手を合わせられるならなおさら、不思議な力が宿っていてもおかしくはない。
けれど、そういったものとはかかわりを持たないと決めている志音にとって、神がかった桜の美しさも心には映らなかった。
毎年、入学式を終えた頃に村の桜は満開を迎える。バス停と桜がとても絵になるので、三脚を片手に訪れる人も少なくはない。志音は毎年そんな光景を横目にしつつ、無視を決め込んでいた。
微風に揺れる花を背に、志音はバス停に立つ。
静かだった。その静寂に身を委ねていると、鳥のさえずりさえも遠くに聞こえるような、不思議な感覚にとらわれる。意識がけだるくゆらゆらとうつつとまどろみを行ったりきたりし始める。
(……俺を呼ぶな、引き込むな)
この感覚を知っていた。気をしっかり保ち、毅然として拒否しようとするけれど、駄目だった。けだるい意識にのみこまれていく――。
まるで体はそのままに、魂だけを強く引っ張られているようだった。やがて体が一気に軽くなった。
「くそ、なんでだよ」
思わず悪態をつく。
バス停が消え、辺りは薄闇に包まれていた。
夜空には星、月明かりがしだれ桜に降り注ぎ花がほのかな光に包まれている。辺りは見渡す限り何もなく、草原が広がるばかりだった。
志音は舌打ちする。
ここは現世とは違う。あやかしの世だ。現世とは対をなす世界。裏側の世界。景色は似通っていても、あやかしの世の中の、津雲村だ。
「反抗期かな、志音」
声とともに、男性が忽然と現れる。
濃紫の着物に、白練の長羽織姿。長い黒髪を首の後ろでゆるく結んでいる。まるで月から舞い降りたような美しい立ち姿だ。整った顔立ちを志音に向け、優美に微笑する。
「……またお前かよ。もう出てくるなと何度言ったら分かるんだよ」
むすっとして言うが、男は気を悪くする素振りは見せない。そこがまた腹立たしい。
「私のせいではない。願い桜の強い霊力が、お前をここに導いたのだろう。私はたまたま、桜見物に来ていただけだ」
しれっと嘘をつくこの男は、何かと理由をつけては志音の前に現れるのだ。月光が届く頃合いに、勝手に部屋でくつろいでいたりする。なぜか小さい頃から志音にちょっかいを出してくる、よく分からない男だった。
彼の名は八雲(やくも)。彼の正体は、桂男という古くから日本に伝わる妖怪だ。月光とともに現れ、人の命を喰らうらしい。見目麗しい容姿なので、特に女性がターゲットになりやすい。
実際に八雲が現れるのは月が出ている夜だ。現世が朝でも、あやかしの世は夜だったりするので、こうしてあちらの世に引き込まれてしまうと否が応でも会うことになってしまうのだった。もっとも、今回は八雲が志音を引き込んだのだろうが。
「迷惑だ。早く現世に戻せよ」
「久しぶりだというのに、そんなに冷たくしなくてもいいではないか。家族の前ではあんなに素直でいい子なのに、まるで別人のようだよ」
「うるせーな。あの人たちは育ての親だ。あんたとは違うんだよ」
迷惑千万という気持ちを思いっきりこめて八雲を睨む。
「そうか。家族を大事にするその心や天晴れ。いい子に育ったな」
八雲がどこかずれたことを言い、頭をなでようとしてくるので志音はとっさによける。
「おやおや。照れなくともいいのに」
「子ども扱いすんな! どうでもいいから早く戻せ!」
こちらが怒っても相手には少しも届かない。涼しい顔をしてかわされる。志音はもどかしくて地団太を踏んだ。無駄にストレスがたまること、このうえない。
「まぁそう言わずに。ほら、見てごらん。桜が今年もとても美しいではないか。癇癪を起してはもったいない」
「癇癪じゃねーし! ……確かに、桜は綺麗だけど」
自分だけ苛ついているのが馬鹿らしくなってしまう。志音は嘆息しつつ、願い桜を見上げる。
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