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風に花が無限に舞う。静寂に花の音が聞こえてきそうだった。志音の心が少しずつ平静を取り戻していく。
(小さい頃はちゃんと桜に手を合わせていたな)
冷静になると蘇りそうになる懐かしい記憶。しかし志音はむりやりにかき消した。
「願い桜はもう長い時を生きた。そろそろ眠りにつく頃合いか」
「眠りにつく? 枯れるってことか」
見遣った八雲の顔に、志音は口をつぐむ。彼はいつになく真剣な眼差しで願い桜を見上げていた。
「願い桜には、魂が宿っている。お前も知っているだろう」
「まぁ……でもあんまり見ないように、かかわらないようにしてたし」
「小さい頃は、この桜の下でよく遊んでいたではないか」
「そんなの、もう覚えてねーし」
「そうか」
八雲はふっと寂しそうに笑む。
(なんだよ、いきなりそんな顔しやがって)
志音はよけいな罪悪感にむすっとする。
「この桜の木は枯れるが、魂は死なない。一度眠りにつくのだ。長い年月を重ねた古い器は、永遠ではない。この木は霊力に支えられずいぶんと耐えたようだが、そろそろ限界なのだろう。桜に宿った魂は、何十年、何百年かかるか分からぬが、新しい器が見つかるまで、眠り続ける」
「……ふーん」
志音は無感情に返事をする。自分には、関係のない話だ。
「――なんじゃ、しんみりしおって。わらわはしばらくの休息に安堵しているというのに」
どこからともなく女性の声がこだましたかと思うと、花が一つどころに集まり始めた。そして一気に霧散すると、絶世の美女の姿があらわになった。緋色地に花々の刺繍が豪勢にほどこされた打掛に着物。黒髪には簪が幾重にも輝き、まるで花魁のようだった。
「げ……」
志音はうんざりした。またあやかしの登場だ。かかわりたくないと言っているのに、なぜこうなってしまうのだろう。
あやかしの世にいる自分が悪いのだけれど。
(無理やり連れてこられたんだし……)
八雲の誘拐癖、どうにかならないだろうか。
「久しいのう、八雲。それに……そなたも」
女性は八雲を見た後、志音に美しくも妖艶な視線を投げた。
長い睫毛にふちどられた目がゆっくりとまばたく。その視線だけでも惹き付けられる美しさだ。でも。
「あんたになんて会ったことないし。人違いじゃねぇの」
志音はぷいっと視線をそらす。嘘をついた。本当は小さい頃に会ったことがある。
「こらこら。女性にそういう態度はいけないな。すまないね、小春(こはる)。まだまだ子供でね」
「子供じゃねーよ!」
「よいよい。そういう年頃というものじゃ」
なぜ妖怪たちはこうも人の話を聞かないのだろうか。いちいち腹を立てていてはきりがなく、自分が損するだけなので、志音はなるべく感情を閉ざすことにした。
「そなたが覚えておらぬのも無理はないかもしれぬ。そなたがまだこのくらいの、それは小さくて可愛らしい頃だったからな」
小春は白い手の平を膝ほどに持っていくと、すっと目を細めた。
「あったなあ、そういう頃合いも」
八雲もしみじみと言う。
「……親戚のじじばばかよ」
志音は舌打ちした。
「わらわのことは心配せずともよい。もう十分に生きた。人々の願いを受け止めてきた」
小春は紅を引いたような唇を一瞬止め、一度ゆっくりと目を閉じた。まるで何か大切なものをしまうように優しく、両手を胸に当てた後、またしなやかに目を開けた。その一連の動作は見入ってしまうほどに美しい。
「人とは、実に儚いものじゃ。そなたも心して生きよ」
小春の声は流れるようでいて、とても優しかった。そうして、次の瞬間にはもう彼女の姿はなかった。
「現世でもこちらの世でも、花を見られるのはこれで最後だろう。名残惜しいがこれもあやかしの定めだ」
八雲の声の後、志音の視界が歪んだ。意識が引っ張られる感覚の後、光のまぶしさに志音は目をつむる。鳥のさえずりが耳に届き、現世に戻ってきたのだと気づく。しっかりと両足に力を入れ、よろけないように地面の感触をつかんだ。
「つーか勝手に呼び込むなよ。こっちは暇じゃないっつーの」
志音はふと、背後のしだれ桜を振り返った。今年で花が終わるなんて感じさせないほど咲き誇っているのに。
「ま、俺には関係ないし」
何も知らない地元の人たちは残念がるだろうけれど。
「……って、待てよ」
はっとして志音は腕時計を見る。バスの時間がとっくに過ぎ去っている。
「まじかよ‼」
思わず見遣った道路の先に、バスが悠然と走っていくのが見えた。あれでは追いつけない。バスを一つ逃すと二時間は来ないのだ。遅刻決定だ。志音はがっくりと肩を落とすのだった。
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