極限

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 幼い頃、母親と喧嘩をして、家を飛び出した。いっそ、世界の果てへと行ってやる。そんな気持ちで、初めての道をがむしゃらに進んでいった。  喉が渇き、腹が減り、足の裏が痛くなって歩くのが辛くなった夕方、辿り着いた大通りには、週末によく家族で利用するファミリーレストランがあった。  その時の気持ちといったら、がっかりするやら腹立たしいやらで。でも、悔しい事に、とても安心させられたのも、確かだった。 「出口を探しているんです」  役場の四坪しかない会議室で、その少年は呟いた。それは、私からの「朝の農道で、何をしていたのか」という質問への、彼の回答だったが、私に向けて答えるというよりも、独り言、と言った方が正しいような、そんな話し方だった。  その十歳になるかならないかに見える少年は、今朝、近所を見回っていた村の巡査に保護された。そうして、人の目の多い役場に預けられ、一番下っ端の私が少年のお守り役を仰せつかったのだった。  とくべつ、詳しく彼から事の経緯を聞き出したかった訳でもない。それは、警察や児相の仕事だからだ。私はただ、少年に役場の向かいにあるスーパーで買った弁当を食べさせ、食後に茶を出したついでに、話し掛けることで子供の気持ちが少しでも解れればと思っただけで…いや、少年の態度は終始一貫して落ち着いていた。落ち着かない気分なのは、日頃接点の少ない年頃の子供を押し付けられた私の方で、そうして、少しでも気詰まりを払拭しようと試みた次第だった。 「出口って、この村の出口?」  私はロの字型に並べられた机の、少年の斜め右に自分のマグカップと来客用の湯呑みとを置くと、手前にあるパイプ椅子を引き、座った。 「村、……そんなものかも、結局」  少年の答え方は、ひどく曖昧だった。彼は私が勧めた緑茶を一口飲むと、「面白い味がしますね」と変に感心した様子で感想を述べた。 「普通の、安いお茶だけどね。緑茶、あまり飲まない?」 「そうですね。お茶の類は、飲む人をよく目にはしますけど」  この近辺に住む子供たちとは全く違うイントネーションで、少年は幼い見た目にそぐわぬ大人の様な口振りだった。彼の品の良い服装も相まって、ふと、私はテレビで観る名子役たちを思い浮かべた。あの子たちも、可愛らしい外見で、こんな話し方をしていたっけ。しかし、目の前の子の雰囲気は、彼彼女らとも、また違うような気がした。 「この村は、どんなところなんですか?」  今度は、少年の方から質問が出た。私は直ぐには答えられず、一度、会議室の窓から見える十一月の枯れ木を見遣った。 「…一言で言うと、何もない所かなぁ。田んぼとか、畑とかばっかで」 「ここから、出たくなりません?」 「……どうだろうね…」  私はつい、少年から目を逸らした。焦点の合わない場所の少年は、多分、うっすら笑っていた。 「わたしは、どこにだって行きたくなります。遠ければ、遠い程、いい」  ふと、私の頭に「そうだとしても、保護者の方には言わないと…」と、常識的な大人の考えが浮かんだが、それを目の前の彼に口に出して言うのは、たいそう場違いな気がして、黙っていた。 「でもね、出られない場所が、やっぱりあるんです。時間も空間も、いくらだって歪んでいるっていうのにね。結局、わたし達、広い檻の中に捕らわれ、同じところをグルグル回らされているだけなんですよ。ずっと」  「捕らわれ」の言葉が引っ掛かった。彼は、どこかに監禁でもされていたのか?何か、大きな犯罪にでも巻き込まれていたのだろうか。しかし、初めて彼に会ってから既に数時間、少年からは怯えも狂気も、一切感じなかったが。  私はもう一度、少年を見た。少年は、何故だろうか、さっきまでの彼とは別人に見えた。特に、瞳の中が。とてつもなく、深く、淀んでいた。 「偶には、ちょっと面白い事もあります。この『緑茶』なんかね、初めての口にしました。でも、次にはもう見知ったものです。今はまだ、わたしがなにもかも知っているなんて、そんなこと、ないですよ。でも、これからはどうなんでしょう?同じ時間と空間をグルグル回り続けて、同じものを何回も見て、聞いて、飲んで…あぁ、息苦しい!」  少年は俄かに感情的に叫ぶと、拳で机を叩いた。突然の事に肩を揺らした私に対し、瞬く間に苛立ちを引っ込めた少年は謝った。 「すみません。ただ、先の事を思うと、どうにもやるせなくて。だから、何もかもを知り尽くしてしまう前に、ここから出たいんですよ。それで、あなたはどうなんですか?ここから出たくないんですか?」 「私、ですか?」  「村から」、というよりも、むしろ、私は少年と共有する空間である狭い会議室から、一刻も早く逃げ出したくなっていた。だというのに、彼の瞳から目が離せなくなってしまってもいた。 「そう、あなたですよ。案外、抜け道はあるんです。ここじゃ、不老不死を願うのでさえおこがましいって言われてるみたいですけど、時間の枠なんて、簡単に取り払えるものなんです。『時間の枠』、はね」 「私は…」  違う、と思った。 「ハッ、ハッ、ハッ。あなた、謙虚な、素朴なひとだなぁ」  彼は、多分、皮肉を言ったつもりだったのだろう。でも、言葉とは裏腹に、彼の瞳は……優しかった?  風呂から上がって、冷蔵庫から発泡酒を出そうとしていたところに、電話が鳴った。発信元は、東京で働く友人だった。 「もしもし」 『あ、今、仕事終わって、メッセージ読んだ。その、いいのか?こっちで仕事見つけなくて』 「うん。悪いな、こっちから紹介頼んどいて」  私はベッドに腰掛けると、肩に掛けていた湿ったタオルを、電話を持っていない方の手でギュッと握った。 『それは、いいけど…』  友人の声の後ろから、駅のアナウンスが聞こえた。出先で連絡してくれている彼に、ますます悪い事をした気分になった。 『もしかして、彼女、できたのか?そっちで』 「は?出来ないよ。こっち婆さんばっかだぜ」  思いも寄らない友人からの問いに、私は罪悪感も忘れて吹いた。 『じゃあ、……昇進?』 「それは、もっとない。今日なんて一時間、叱られたし。居眠りしてたから」  今度は、自嘲で笑った。うっかり寝ていたのは、たった五分か十分。しかし、ぐっすりと眠ってしまった。謎の少年を役場で預かるなんて妙な、しかし、やけに筋の通った夢を見るくらいに。 「もしかして、俺、ただ、こっちから逃げたかっただけ、だったのかもと思って」 『…地元から逃げて、何が悪いんだよ』 「お前は、違うよ。ずっと前から東京であれやるんだ、これやるんだとか言ってたし。俺は、なんか、今のままじゃ、結局どこ行っても同じかな」 『来てみなきゃ、わからないこともある』 「それも、そうなんだけど」  それからは、二人とも黙った。大人になって忘れていたが、そういえば元々、友人も、私も、頑固な性質だった。  数分してから、私はある事に気が付いた。 「今、まだホームだろ?寒くない?」 「寒い!あー、もう、電車乗るわ。お前ンことなんか、知らん」  そう言った割に、友人は電話を切らなかった。 「んー…、本当に、ごめん」  私は謝罪を重ねた。しかし、気持ちは変わらない。友人はわざとらしい大きな溜め息を吐いた。 『…やっぱさ、お前、東京来いよ』 「だから、俺は」 『そうじゃなくて、観光。たまには遊び来いよ。俺んち泊まらせてやる。ワンルームだけど、布団なら二組あるから』  少年は、出口を探していた。見つけるのがとても困難な、出口を。でも、ちょっとした出口だったら、多分、何時ででも、何処ででも、きっと用意されている。  それは入口でもあって、私たちは案外、簡単に行き来する事ができるのだ。 「うん、行くよ。お前も、盆や正月じゃなくったって、いつだってこっち、帰って来いよな」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!