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1 夕立
夕空を。
背後から羊雲が北風にあおられ、あっというまに駆け抜けていく。男の頭上を越しては、山脈の輪郭に隠れた地平線に吸いこまれていった。
コンクリートを一定の間隔で踏みしめる。右手には紅葉をつけた針葉樹が立ちならび、秋風に攫われてはささやき声が森林に溶けていく。反対側には視界いっぱいに畑が広がり、小金色の実をさげた麦が子気味よい音色を鳴らした。
遠くへ、遠くへと。東雲 和樹は歩いていた。
乱れた頭髪と痩せこけた頬、じっと前をみつめる眼は弱々しく光る。風呂どころか、まともな栄養も摂っていないとひとめでわかる身なり。それでもリュックを背負い淡々と脚を動かす。
ふと、男は車道のすみに一点のしわをみつけた。それとほぼ同時に、生腕に冷たい雨粒が落ちて弾ける。車道のしわは瞬きするごとに増えていき、豪雨が体をおおうように降りそそぎ始めた。
ーー早く雨宿を見つけないと。
胸底からわき上がってくる焦燥感を抑えながら、和樹は秋雨のなかを走りだす。濡れたシャツが体にくっつくのに歯軋りをし、リュックを頭上に掲げる。大切なものが濡れてしまうことを想うと胸に錘が圧しかかるようだった。
しばらくすると、畑の奥に木造の民家がのぞけた。
民家の方角に足を進めていると、麦畑の脇道から一人の少女が傘を両手に二つ持って走ってきた。うしろで一束にまとめた黒髪、橙のスカートをゆらす。長靴のぴちゃぴちゃという音が大きくなっていく。少女のあどけない瞳は貧相な男を射止めていた。
「これ、使ってください」
和樹の目のまえで止まった少女は、見ず知らずの男に傘をさしだした。かわいらしいピンク色の小柄な傘だった。
和樹は掲げていたリュックを背負いなおし、傘の柄を握って天を穿つように勢いよく広げた。
一瞬にして温かな陰に覆われる。パラパラと雨が弾かれていく。子供用の傘は和樹の全身を覆い隠すとまではいかず、時折、風に乗せられた雨粒が肩や背中を打った。男の顔を間近で目にした少女は胸にざわつきを覚えた。
「……おじさん?」いぶかしげに男を見つめる。
「どこかで、会いましたか?」
初めて会ったとは思えず、少女の口から疑問がそのまま飛びだした。雨に染められた車道に、淡い水滴がぽつぽつと落ちる。滲んで、すぐに雨粒に塗り潰されて。少女は肩を震わせる男の顔を再び眺め、思い出せそうで出せない境界をさまよっていた。
しばらくして男が返したのは嗚咽だった。顔を伏せ、胸を抑え。「大丈夫ですか?」少女がそう聞いても返答は変わらなかった。
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