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いつの間にか、陽が落ち始めていた。犬を連れて散歩するお爺さんもいれば、帰宅するサラリーマン達。部活帰りの学生が談笑する声も聞こえる。目の前を流れる川は、こちらを避けるように、遠くへ遠くと、水を運んでいく。
もう何時間ここにいるんだろ。
「はぁ〜」
溜息が聞こえた。紛れもなく、自分のものだ。
「溜息をすれば幸せが逃げるよ」
昔、バイト先の女の子からそんな事を言われた。そもそも、そんなものが俺にあったのか? その子がいたら、問いただしてやりたい。もちろん、彼女どころか誰も答えてくれないだろうけど。
これからどうするかな。またそんな事が頭を駆け巡る。家に帰ったら事実を目の当たりにする気がして、腰を上げる気にならない。
だけど、俺には行き場が限られている。一度立ち上がると、家しか向かうところがない。しかし、それだけは避けたい。でも、いつまでもここにいるわけにもいかない。そんな事を何回繰り返しているだろう。でもなぁ〜。
もしかしたら、美雪のやつ。家で待っててくれたりしないかな? スマホに連絡は入って来ないけど、先走って俺の連絡先を消して、こっちに連絡を入れる術がない。そうやって困ってるんじゃないかな? まさか、そんな事がある訳がないよなぁ。
やっぱり、ちゃんと謝るべきだったな。でも、今更聞いてくれる訳ないよなぁ。
「どうして約束守ってくれないの?」
その言葉、何回言われただろう。約束を破るつもりはなかったんだけどな。つい、忘れてしまうんだよなぁ。だって、楽しいんだよな。あいつらと飲みに行くの。本当に楽しいの。だから連絡が怠るってのもわかってほしいわけさ。でも、そんな事を言うと、また言い訳ばっかって言われるだろなぁ。どうすればいいんだろう本当。
別に美雪が嫌いな訳じないし、いい加減な気持ちを持ってる訳でもない。それに、他の女の子に目を向けはするけど、浮気なんて一回もした事はない。だからスマホだって見られても怒らないだろって言ってやりたい。プレゼントだって渡している。その中身は、美雪の好きなものだって、わかってるつもり。それでもやっぱ、怒られるだろなぁ。そういうとこが駄目なんだって言われるんだろうなぁ。全部言い訳に聞こえてしまうんだろうなぁ。
いつからこんな事になっちゃったんだろ。昔はそんな事なかったのになぁ。何やっても笑ってくれたし、それが嬉しかったし、居心地良いし。だから、こんなにも付き合ってこれたわけだし。でも結局、何を言っても信じてくれないんだろうな。気持ちを切り替える。そうすべきなのかなぁ。でも、そんな簡単にいかないなぁ—。
またぼ〜っと、川はを見ていた。頭ではあれこれと空想が駆け巡り、川は相変わらず、俺を避けるように、遠くに水を運ぶ。
その時、一人の女性がこちらに歩いて来るのが目に入った。
この人が美雪だったら。一瞬そんな空想を描いたが、事実は何も変わらない。だけど、その女性は明らかに容姿端麗だ。声をかける勇気があれば、声をかけているんだろうけど、生憎、そんな勇気を俺は持ち合わせていないし、そんな気分になれそうにもない。
女性は徐々に近づいてくる。ゆっくり。ゆっくりと。
その人がすぐ側まで近づいて来た時、小さな違和感に気が付いた。
それは涙だった。
その女性は明らかに涙を浮かべている。何があったのだろうか…。その時、頭に誰かからのお告げが降りて来た。
もしかして、これは運命? まさか。そんな事がある訳がない。俺は美雪が好きだし、今でもよりを戻したいと思っている。しかし、こんな偶然はあるのだろうか? これは、声をかけるべきじゃないのか? 運命って、こういう事をいうのではないのか?
勇気を持つべきじゃないのか? 自分の中で感情が押し問答を繰り返す。どうする? あの人はもっと近づいて来るぞ。俺は目を瞑り、内側に意識を向けた。気持ちが大きく膨らむ。
「よし」
その決意が定まり、俺は目を開けた。声をかけよう。別に、下心を持っているつもりはない訳だし。
立ち上がろうとしたその時ーー。
「加奈」
男の声が、誰かを呼ぶ声が聞こえた。その姿が目に入った時、明らかに自分よりも、はるかに端正な顔立ちで、スタイルのいい体格。同じ男でも、まるで別格である人物がこちらに向かって走ってきた。
すると、その女性の顔色が変わった。明らかに早歩きになり、足早に俺の目の前を通り過ぎようとした。
「加奈、待てって」
そう言って、男性は女性の腕を掴んだ。
「離して」
女性は、男の手を振り解こうする。しかし、男は離さなかった。
「悪かった。俺が悪かった。だから、許してくれ」
男はそう言って、女性に小さく頭を下げた。しかしー。
「知らない。離して」
女性はそう言って、また腕を振り払おうとしたが、男性の力が勝り、思うようにいっていない。
「話を聞いてくれないか?」
「嫌。だから、離してよ」
俺は、目の前で起きる押し問答を、ただ見ていた。
揉めている男女に声をかけるなんてできない。じっと時を過ぎるのを待つ。それが一番だ。
しかし、待つ必要なんて、全くなかった。
男は女性の体を強く引き寄せ、抱きしめた。
その瞬間、女性はさっきまで姿が嘘だったように、ただ身を預けていた。
俺は、思わず固唾を飲んだ。
男が耳元で何かを呟く。何を言っているのか分からないが、女性は小さく頷いた。
そして、左手で男性のズボンを強く握った。
完全に心許したな、これは。
いつまでもこんな光景に目を向けているのも申し訳ない。俺は、俯くように視線を逸らした。
だよな。そうだよな。当たり前だよな。こんな邪念を持つからこんな事になるんだろうなぁ。都合良く頭を働かす自分を戒めてやりたくなった。
大きな影が映る。地面を見ていると、急に虚しさが襲ってきた。ずっと並んでいた片方の影が大きく欠けている。隣にいないとわかっているのに、そっちの方が悲しく思えるのはどうしてだろう。
急に縮んでいく気持ちは、今にも呻き声を上げそうだ。これに負けると、涙が出てくる。それだけは勘弁だ。こんな場所で泣くなんて、できるわけがない。
自分達があんなに美しいものじゃないって事くらいわかってるけど、周りなんて見えないくらい美雪といる事が楽しかったな。
本当、いつからこんな風になっちゃったんだろ。あの時に戻れないかな。あの子らが羨ましい。
俺ももう一回、ちゃんと謝らないとな。そうだ。謝るべきだよな。美雪がそれを聞いてくれるといいな。
そうと決まれば、俺はあれほど重たかった腰を上げた。まずは美雪へ連絡。出ないかもしれないけど、会って話がしたいと頼もう。とにかく、誠意を自分なりに見せるべきだ。
人影がない場所を選び、俺は美雪に連絡を入れた。コールが何度も耳に入って来るが、声が聞こえるまで諦めたくなかった。留守電にならない事は承知済みだ。ただ待つしかないと思った。
何十回と続くコール。それが、止んだ。
「もしもし」
素っ気ない声が、俺の耳に入る。
「美雪、とりあえず俺の話を聞いてくれ。悪かった。全部俺が悪かった。本当に申し訳ないと思っている。だからー」
ここで間を開けると、いけない。とにかく、思いを一気に吐き出さないと。俺は話を続けた。
「だから、一度会って欲しいんだ。ちゃんと会って謝らせて欲しいんだ。頼むりこの通りだ」
「あのさ」
一通り話終えると、美雪の声が遮ってきた。
「何? どうした?」
「うるさくて何言ってるかわからんない」
「えっ、だから、その」
「電話じゃ分かりづらいから、早く家に帰って来てくれない? どうせ、その辺うろついてるだけなんでしょ?」
俺は嬉しくて、声を張り上げた。
「わかった。すぐに帰るから。だから、待っててくれ」
電話を切ると、体が一気に軽くなった。余計なものが削げ落ちた気分だ。よし。家に帰ろう。
歩き出した時、先程のカップルが目に入った。
俺はただじっと、目を奪われていた。二人のお陰で、俺は勇気をもらったのかもしれない。感謝をしないといけない。それにしてもー。
じっと見てるのは申し訳ないけど、この人達、いつまで抱きしめ合うんだろう?
これが愛なのかなぁ? 俺はただ、二人を見ながら考えた。
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