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◇
一週間前。
その日はなぜだか朝から無性にピアノが弾きたかった。職場でも仕事が手につかない僕は、急遽ピアノを弾けるレンタルスペースを探して駆け込んだ。
出掛けにカバンに突っ込んだピアノ曲集。ショパンのワルツOp64-2ページを開き、鍵盤に指を走らせる。数十年来の演奏に全く指は動かなかったが、2時間かけてようやく変調する展開部の手前まできたところで、予約時間が終了した。久しぶりの演奏に心は高揚し非常に満足した。
……はずだった。
その帰り道。演奏イメージを頭に叩き込むために、電車の中でイチオシのピアニストの弾くワルツOp64-2を聞き続けていた僕の頬に涙が伝った。
高校時代。独学で学んだピアノ。かつては自分の表現したい形で弾けていた曲が、今では聞くも無残、最後まで弾くことができない。それどころか腕が鉛のように重くなる始末。
積み重ねたものが霧のように消え去る。そのどうしようもない喪失感。同時にそれは、ある人への想いが、何もなかったかのように消えていくことを意味していた。
その日の夜から、あの悪夢は始まった。
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