第三話

2/7
87人が本棚に入れています
本棚に追加
/409ページ
一週間経った。あと、ひと月は開封府に滞在することになりそうだ。興行のない日は、稽古の合間に買い物に出ることを許されている。俺も夕方になってから、少し市場に出てみようと思った。 ここは、夕方でも昼でも夜でも多くの人で賑わっている。開封府は、こんなにも物で満ち溢れているのだ。各地を旅する芸人にとって、貧しい里や村とどうしても比べてしまっては、複雑な思いに駆られる時がある。自分の両親は、今頃村で元気にやっているのだろうか。考えて、やめた。あそこも、貧しい村だったのだ。役人に税をむしり取られ、病に倒れ、餓死しているかもしれない。自分がいたら、少しは違っただろうか。ああ、やめようと言っているのに。どうしても、考えてしまう。 ──突然、体に強い衝撃が走った。 「おい、ウスノロ」 すれ違った図体のでかい男と、肩をぶつけてしまった。思わず苦い顔をしそうになって、慌てて唇を引き締める。男は、ものすごい力で俺の腕を強く掴んだ。 「申し訳ございません」 微笑もうとして、顔が引き攣った。これは、女にしか効かないやり方だ。掴まれた腕に、更に力が加わる。 「笑うな。調子に乗りやがって」 「……申し訳……」 周りの人の視線が、肌に突き刺さってくる。腕が、痛い。このまま折られてしまっても、おかしくはない腕力だと思った。それは、まずい。犬芸人、腕を使い物にならなくしては芸など出来ない。 「腕を、離していただけないでしょうか」 「ああ、離してやるよ。お前のその顔を、一発ぶん殴ってからな」 拳が、振り上げられた。すん、と腹の底が冷たくなった。嫌だ。殴られる時の痛みなど、俺はもう充分に味わっている。が、どうしようもなかった。ぎゅっ、と固く目を瞑る。 「お待ちください」 美しい、声が聞えた。目を開くと、小柄な少女が目の前にいた。 「……なんだ、この女」 龍翠だった。後ろ姿だけで、顔は見えない。龍翠は何も言わずに男の手をとり、中に何かを握らせる。素早い、仕草だった。 「これに免じて、どうか」 「……おい。これで黙ると思ってんのか」 「土下座でもしましょうか。頭を踏みつけるなりなんなり、お好きになさってください」 「やれるもんなら。なあ、ウスノロ。お前より歳下の女が、こう言っているが?」 「やるのは、私です」 「──ほう」 「龍翠」 地面に座りこもうとした龍翠を、慌てて抱き抱えた。先程解かれた腕が、じんと痛む。恥ずかしさで、消えてしまいそうだった。周りに集っている人達のざわつきが、高まる。 「……申し訳ございません、俺が、俺が悪かったのです」 震える声で、そう言った。こんな、失態。演戯をしている時の俺は、どこに行ったのだ。 「黙れ。いい気味だな、有名一座の芸人も所詮、顔がいいだけのウスノロの集まりなのか」 男が嘲笑う。顔が、いいだけ。俺はかっ、と顔が熱くなるのを感じた。腹の底から何かが、突然溢れ出してきそうになった。 「彪林殿。離してください」 「うるさい、どうしてお前がそんなことをする必要がある」 「ウスノロ、だから貴様がやれと言っているのだ。早くしろ」 体が、動かなくなる。残り少ない自尊心を、これ以上ずたずたにされたくはない。こんなことなら、拠点から動くんじゃなかった。そんなことを思っても、もう、後の祭りだ。
/409ページ

最初のコメントを投稿しよう!