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人目のつかない、路地裏。俺は近くにあった店で饅頭を二つ買い、龍翠にひとつを手渡した。置かれてあった木箱の上に、二人で腰を下ろす。
「これだから、ここは嫌いです」
龍翠が饅頭を一口食べ、飲み込んでから静かに言った。確かに、前に開封府に来た時も龍翠はどことなく調子が悪かった。いや、確かその時に龍翠は歌詞を忘れてしまったのだ。
「ここで一人前の芸が出来る芸人が、本物だろ」
自分で言っていて、違和感しか覚えなかった。一人前、か。一人前の芸人は、ごろつきとぶつかったくらいであんな情けない態度はとらない。
「成程、人が多い分、銭も手に入ります。しかし、面倒な人間は嫌いです」
「あの日の失敗から、開封がこわくなったか」
「……お忘れになってくださいと、言ったはずですが」
龍翠は眉間に皺を寄せ、勢いよく饅頭にかぶりついた。よくもそんなに、と思うほどの量を頬張っている。
「ひとつ、聞いていいか。俺、お前があの日見たものがなんとなく分かった気がするんだが」
龍翠の口の動きが、止まった。
「俺もこの間、見た。とんでもない美男子だった」
「……」
「惚れたか」
言いながら、やるせない気持ちに襲われる。そっけなく言ったつもりが、表情は自分でもわかるくらいに冷たくなっていた。
「……まさか」
「やはり、見たのだな」
「ええ、見ましたよ。田旭というのでしょう」
龍翠の声音も、やはり冷たい。田旭。名を、知っている。しかし、白藍に聞いて知ったとはどうしても思えなかった。
「男の俺でも、心を奪われそうになった。女が見たら、尚更だろうな」
「……確かに、顔は良いですが」
「が、何だ」
「私たちを、蔑んだような目で見ていた。それが許せなかった」
怒っている。そんな龍翠に少し、驚いた。
「……お前も、見たのだろう?この間もあの男が見物していったところを」
「開封府に来たら、必ずいます。あの目でちょっとばかり芸を見てから、颯爽と立ち去るのです」
「嫌いか?」
「……はい」
その言葉を聞いて、安堵している自分がいる。素直に、認めた。しかし、心の内はまだ晴れない。
「惚れてもいないのに、あそこまで動揺するものなのだな」
「……」
「あれがきっかけで、あんな化粧をするようになったのだろう。その刺青は、どうした」
「……これは」
「なぜ、刺青なのだ」
「化粧の手間を、省く為に」
「簡単には消えないというのに。わざわざ痛みにも耐えてまで」
「あのくらい、どうってこと」
龍翠の饅頭は、もうなくなっていた。対して自分のものは、少しも減っていない。龍翠がいかにも落ち着かない様子で、足をふらふらと揺らしている。
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