第一話

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また、半年が経った。 「国を去って 三巴遠し、  楼に登る 万里の春、  心を傷ましむ 江上の客、  是れ故郷の──」 「……故郷の」 ある日、龍翠は珍しく失敗した。歌詞を、途中で忘れてしまったのだ。その時、龍翠は目をいっぱいに見開いて、とある方向を凝視していた。まるで大勢いる客の中のひとつを、じっと見つめているかのように。本人はただ緊張しただけだと言い張ったが、俺はその視線の先に何かがあったとしか考えられなかった。そう問い詰めても頑なに龍翠は何も答えなかったが、紅隆様の怒りようといったらそれはもうとてつもないものだった。お前は一座の恥だ、と紅隆様は珍しく怒鳴った。たった一度の過ちで。少々理不尽な思いに駆られながら、俺は棒で何度も打たれている龍翠を思わず庇った。自分が、代わりに罰を受ける。俺はこいつの、師だから。用心棒達にそう言うと、奴らは思いっきり俺の顔を殴り倒した。何も言わずに、ただ用心棒達は俺を殴り続けた。遠くで龍翠の声が聞えたような気がしたが、よく分からなかった。どうして。ここはまったく、理不尽な世界だ。次第に、痛みすら感じなくなってくる。意識は、遠くなったり近くなったりをただ繰り返していた。 ──そういや、 「故郷の、人ならず」 あんなに弱々しい龍翠の歌声を聴いたのは、いつぶりだっただろうか。
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