Kitty's Tiral

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  「さてさてさてと、お嬢さん」  シルクハットにタキシード、蝶ネクタイにステッキ。白髪に青と金のオッドアイ。  現代の日本にいるとはとても思えない風貌の青年は、深々と礼をすると、芝居じみた口調で言った。 「あなたの記憶にありさえすれば、何でもかんでも時空を超えて、目の前ズラリ、勢揃い。お代はすでに、いただきました。どうぞお選びくださいませ」  お嬢さん。なぜか、その呼び方がしっくりと来る。自分がどういった人間なのか、どういう経緯でここまで来たかは覚えているのに、名前は何だったのか……これだけがどうも、思い出せない。クラスメイトに呼ばれるところを思い出すも、自らの名前の部分だけにノイズがかかり、うまく聞き取れない。 「……あなたは、このお店の店長さん?」 「ええそうですよ、そうですとも」 「お名前は?」 「おやおやおや、そちらから名乗るのが礼儀ではありませんか?」 「……私は、名前が思い出せないの。名前、だけが」  ここに来る前は、確かに覚えていた、気がする。この店に入るときに、ぽっかりと置いて来てしまったかのようだ。 「そうでしょうそうでしょう」 「そうでしょうって……じゃあ名前なんて聞かないでよ」  客の反論に、青年は目を細め、口を三日月形に歪める。 「名前に価値などなかったのです。だから思い出せないのです。あなたは名前を置いてきた、あなたはあなたを置いてきた。それだけのことでしょう」 「……」 「さあさ、名もなきお嬢さん。お選びください、お選びください。あなたの最も欲しい物。あなたの最も恋しい物を」    猫。猫だった。おつかいのために外に出た自分を、ここまで導いてきたのは、白猫だった。  美しい毛並みの猫だった。青年と同じ、青と金のオッドアイ。尾の毛先は醤油を零したかのように少し黒ずんでいた。  なぜ追いかけたのだっけ。ああそうだ、どうしようもなく追いかけねばならないような思いに駆られたのだ。今追いかけねば、絶対に後悔すると思ったのだ。  マンションの並ぶ街並みから、猫は自分を先導して滑らかな足取りで歩いて行った。夕焼けで赤く染められた景色を裂くように、足音もなく、密やかに。  やがてたどり着いたのは、細い細いビルの隙間。すでに影に落ちた世界から、取り残されたような空間。唯一の希望の如く、光が漏れていた。  猫はいつの間にやらどこかに消えていたが、躊躇いもなく足を進め、下からのライトに照らされた木の扉の前にたどり着いた。『OPEN』とだけ書かれたコルクボードがドアノブから垂れ下がっている。隣にある猫用出入り口の扉が、微かに揺れていた。  店の名前も、どういった店なのかも、一切表示などない。しかし迷いはなかった。迷いどころか、疑いさえも感じなかった。何かに魅せられたような、あまりにもふわふわとした気持ちで、扉を開けた……。    二人が並んで歩けるような、幅広い一本道の通路の脇に配列されていたのは、木の棚。天井まで届く、背の高い棚、棚、棚。様々な大きさの棚に、手袋や本、ぬいぐるみなどが綺麗に置かれている。  青年は笑ったまま、その棚に置いてあった物から赤いランタンを選び、手に取った。薄暗かった通路が仄かな明かりに照らされる。そのままでも十分見えたのだが、確かに本に書いてある文字などを読むには不便であっただろう。 「買う物は、何でもいいの?」 「勿論ですよ、お嬢さん。お代はすでに、いただきました」  客の少女は、身に着けていた白いポシェットの中身を漁った。中にあった財布を取り出すと、中身を確認する。……一円も減ってはいない。  訝しげな目で青年を見るが、彼は相変わらず細い瞳でこちらを見るばかり。大体、この青年も何者なのかわからない。しかし、名前を聞いても先程のように答えてはくれないだろう。 「私は、あなたを何と呼べばいい?」 「あなたが名もなきレディであるのなら、ぼくにも名前はありません。しかしお客様であるあなたが望むのならば、この店の者として仮の名を名乗りましょう。ぼくのことはKT、こうお呼びください」 「……ケーティー? アルファベット?」  KTはうなずいた。それから、あの猫のように、客の自分を先導して歩き始めた。歩くたびに床が軋み、ぎいぎいと音を立てる。少し歩いたところで、彼は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。 「おいでなさい、お嬢さん」  迷うように、出口である扉を見る。 「それとも、お帰りですか?」  首を振る。帰る気にはならなかった。財布をポシェットにしまうと、KTに続いて足を踏み出した。    ぎい、ぎい、ぎい。  おしゃぶりやカエルの形のよだれかけなど、ベビー用品が多く置いてある棚の前を行きすぎる。  ぎい、ぎい、ぎい。  角の丸い積み木や、大きな熊のぬいぐるみなど、おもちゃの類が多く置いて ある棚の前を行きすぎる。大好きだったアニメキャラクターのプリントされたTシャツなども置いてあった。  ぎい、ぎい、ぎい。  KTは後ろを歩く自分がぶつかってしまいそうになるくらい、ゆっくり歩いた。ランタンをかかげ、ステッキを床につきながら。一定のスピードを守っているくせ、棚に懐かしい絵本などを見つけて読み始めると、何も言っていないのにぴたりと止まって振り向き、ランタンを本の文字が読める程度にまで近づけてくる。そして、本を閉じるとまた前になおり、歩き始めるのだ。  何度かそれを繰り返した後、疑問に思っていたことを、ランタンを手に近づいてきたKTに聞いてみた。 「ねえKT、私の払ったっていうお代は、いくらくらいなの?」 「お嬢さんが欲しいと思われる物に、ぴったりの金額です」 「まだ私は欲しい物を決めていないよ」 「それでも、ぴったりの金額なのですよ」  自分より二十センチほど高いところにある顔を見上げる。 「大体、私の払ったお代って何なの?」 「おやおやそれは、お嬢さんが一番よくわかっているはずですよ」  そう言われても、わからないから聞いているというのに。KTの出した答えは、後にも先にもこれだけだった。自分よりは年上だが、比較的若い顔立ちが見下ろしてくるのみ。 「ほらほらお嬢さん、そんなことより見てごらんなさい。あなたの大好きだった物が並んでいるじゃありませんか」  KTは前方を指さしながら、ふわりと客の右手をとった。その姿に相応しい、紳士のような物腰で誘導し、思い出の品の前に連れてくる。  それは、大きな仕掛け絵本だった。開くたびにユニコーンやら、煌びやかなお城が目の前に飛び出してくる。本屋で見つけた途端に一目惚れし、母親にすがりついてまで欲しがった絵本。まだ学校には行っていなかったから、五歳くらいの頃だと記憶している。 「これ、よく覚えてる……」  一つ一つの仕掛けが細かくて、いつも恐る恐る開いていた。それでも最後にはあちこちが破れてしまって、泣く泣く手放したのだが、手にしている本は買ったときと同じ、傷一つない新品だった。  今にして思えば、なぜあんなにも欲しがったのだろう。買ってもらったときには、まるで世界中の幸福を得たような気分だった。本を抱きしめて帰った。だが、中学三年生である今の自分なら、間違いなくこんな金額……二千三百円を、一冊の絵本につぎ込んだりしない。小さな子供というのは、なぜ余りにも単純な物にも目を輝かせるのか。 「ほらほらお嬢さん、こっちにもございますよ」  今度はかがみこんで、KTが棚の下の方から自転車を引っ張り出す。ああ、これも懐かしい。一年生になってから、同級生の男の子にまだ自転車補助輪つけてるのか、とか何とかバカにされ、泣きながら練習したときのものだ。膝や肘に血が滲み、至るところを擦りむいても、男の子の笑い声が消えなかった。ほんの些細な一言で、激怒したあの頃。がむしゃらになって、自分の体をぶつけるようにして、何にでも立ち向かっていた。  ……楽しかった。ともかく、楽しかった。  毎日遊んでいても怒られなかったし、「受験生なんだから」「高校落ちるよ」なんて言葉にも縛られていなかった。勉強なんてテストの前にだけちょっとすれば百点がとれたし、友達と遊ぶことが何よりも楽しかった。   「おやおやこれは、お嬢さんの大事なアルバムじゃありませんか」 「見せて!」  KTの手から桃色のアルバムをむしり取る。彼は少しだけ眉を上げたが、別段気にした様子もなく、むしろ楽しそうに口角を上げた。そう、店主はランタンを掲げ、客が思い出を漁る手伝いをするのみ。客がそれに夢中になってくれるほど、愉快なことはない。 「……蓮花……」  れんか。我を忘れたようにページをめくる客の口から、確かにその言葉が漏れた。 「お友達ですか?」 「……そう。これは、親友が転校しちゃうときに二人で作った、思い出のアルバムなんだ。二人で色々なところ行ったり、した、から……。今は、元気なのかも、わからないけど……」  ずっと友達でいようね、なんて。  なんて甘い。いつかはどうでもよくなるのだ。住所や電話番号は知っている。ただ、彼女のために動くのが億劫なだけで。あんなにたくさん遊んだのに、数年もすればちらとも思い出さなくなる。 「大丈夫ですか、お嬢さん」  その場からぴくりとも動かなくなってしまった客に、KTは首をかしげて聞いた。もっともそれは、心配している内容にも関わらず、笑みで紡がれた言葉だったのだが、うつむいている客は気づかない。 「……私、薄情者かな」 「おやおやおや、これはまたどうして?」 「今まで忘れていたくせに、思うんだ。また、遊びたいなって……あの頃に戻って、蓮花と遊びたいなって。勉強とか学校とか、何もかも全部忘れて、遊べたあの頃が……すごく懐かしい」 「おやおやおや!」  またしても芝居じみた仕草で、KTは手を打った。彼の隠しきれない高揚に、今度こそ客は顔を上げる。そして……息を呑んだ。 「お嬢さん、それは素敵なことですよ。思い出は楽しい記憶を呼び覚ましてくれます。あの頃に帰りたいと、そう思わせてくれます!」  彼の二色の瞳は爛々と輝き、口からは鋭い牙が覗いていた。背中の方ではうねうねと動く白い物体が見える。猫の尾だった。 「さあさお嬢さん。お選びください、お選びください。あなたの最も欲しい物、あなたの最も恋しい物を! そうすれば戻れます、恋しい恋しいあの頃に!」  そういうこと、だったのか。  客はアルバムを握りしめた。どうも、さっきから本当に自分の持っていたものばかりが並んでいると思った。名前を忘れている時点で普通じゃないとは思っていたが、やはり、この店はおかしい。 「そんなの、嫌。戻る、なんて」  KTは首をかしげる。 「さてさてそれは、どうしてでしょう? お嬢さん、思っていたでしょう? 小さな頃はよかったなあ、あの頃に戻りたいなあって。だからぼくは連れてきて差し上げたんですよ。あなたが辛くて悲しくてどうしようもない顔をしていたから」 「……そんな顔」 「してないと仰いますか? おやおやおや、強情なお嬢さんだ。ぼくは知ってるんですよ。あなたが学校帰りに公園の近くを通るたびに、羨ましそうな……いいえ、うらめしそうな表情で子供を見ていたこと!」  学校でも勉強しろと言われ、家に帰れば勉強しろと言われ、ゲームしていても本を読んでいても何をしていても「受験生なんだから勉強しなさい」と言われ、テストの成績が悪かったらゲームを隠され、予定には塾がびっしり、家に居ても塾に居ても学校に居ても勉強勉強勉強……。  わかってるよ。  ……わかってるよ!  叫びたくも、なる。どう頑張っても結果が出ない。どう勉強すればいいのかわからない。何もできない。楽しくない。毎日勉強勉強勉強、なぜ母の方がヒステリックになっているのかわからない。叫び出したいのはこっちだ。ああもう嫌だ。高校なんて行けなくていい。もう、嫌だ。みんなうるさい。もう放っておいて!  にゃおん。  どこかで猫が鳴いた。  ……だからって。だからってこんな風に、終末が来ることは望んでいない。  客ははじける様に立ち上がった。アルバムを投げ捨て、今まで歩いてきた道を全力疾走し始める。扉にたどり着くと、勢いよくドアノブを引いた。 「……え」  開かない。押しても引いても、開かない。ぎい、ぎい、ぎい。KTが近づいてくる。 「お嬢さん、お代はすでにいただきました。あなたの生きてきた時間」  ぎい、ぎい、ぎい。 「その頃から今までの時間を頂く代わりに、ぼくはあなたをその頃に連れて行く。今はあなたが生まれてから今までの時間を頂いている状態なのですよ」  ぎい、ぎい、ぎい。 「だから、何もいらないと申されるのなら、あなたは赤ん坊に戻ります。勿体ない。折角なら、自分の行きたい頃に行きたいでしょう。まあ、頂いた分の時間の記憶は消えますが」 「な、何で帰してくれないの! 私は何もいらない!」  ぎい……。 「あなたは時間を憎んだ。今の時間から目を背けすぎた。それなのに今はいらないと言う」  KTは肩をすくめ、呆れ果ててつぶやいた。 「……何て強欲」  憎んだ。今まで過ぎた時間を憎んだ。『今』を憎んだ。  忘れた。今まで過ぎた時間を忘れた。そして『今』をただひたすらに憎んだ。  なぜこんな目に遭わなければいけないのか。  昔に戻りたい。あの頃に戻りたい。  楽しかった、あの頃に。 「……いつも楽しかったわけじゃない」  客はつぶやいた。 「……蓮花が転校しちゃうときは寂しかったし、自転車の練習も泣きながらやった。絵本が破れたときもすごく切なかった。……今思えば些細なことでも、それがその頃の世界の全てだった。大人にとっては笑い飛ばすようなことでも、小さな子供にとっては大切なことなの」  ドアノブから手を離し、うつむいて続ける。 「ただ楽しかったように錯覚していたけれど、違うね。いつも何かしらの問題を抱えていたし、いつもそれを全力で乗り越えてきた。そのたびに私は成長してきたんだから……折角乗り越えたのに、また戻るなんて御免だわ」 「ならば何が欲しいのですか?」  店主が問う。完全な無表情だった。 「……私の名前を頂戴」  客が答える。完全な笑顔だった。 「私はこの店の外に名前を置いてきたわ。ならばそれを頂戴。『今』の私を頂戴」 「……かしこまりました」  一礼するKT。もう尾は揺れていない。 「お代は『この店で過ごした時間』になります」 「ええ」  きい。  ドアがひとりでに開いた。 「お品物は店の外にございます。ご来店ありがとうございました」  彼に見送られ、客は外に足を踏み出そうとした。しかし一度振り返り、青年に言う。 「あなたを忘れる前に言っておくね。……素敵な物をありがとう」 「おやおやおや」  とんでもない皮肉だ、と笑っていたのは……猫だった。あの白猫が、今の今までKTのいた位置に佇んでいた。 「お客様の幸せがぼくの幸せです」  今度は名もなき少女が苦笑した。きびすを返し、今度こそ店の外へと歩いて行く。  猫もひらりと向きを買え、店の奥へと歩いて行く。あの醤油を零したように黒い毛先の尾が揺れていた。 「……ただいま、お母さん」 「遅かったわね。何かあったかと思ったわ」 「ぼーっとしてたらあんまり見たところのないところまで行っちゃって……。何もなかったのになー」 「もう、寝不足なんじゃないの? まだ子供なんだから、ちゃんと寝なさいよ」 「あれ、いっつも夜まで勉強勉強言ってるのは誰だっけなあ? ……あははっ、わかってるよ。大丈夫。私、自分なりにまた乗り越えてみるから」 「……どうしたの? 何か吹っ切れたの?」 「そうかも。何だか、すごく楽になったんだ。見つけたかったものを見つけたっていうか……蓮花のこと思い出したからかなあ」 「ああ、蓮花ちゃん?」 「うん。後で電話しようと思うんだ。あの頃の思い出話とかは、今じゃないと楽しめないし!」  にゃおん。  どこかで猫が鳴いた。
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