第一話「はじまり」

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第一話「はじまり」

 こういうとき、夢には子供のころを見るのが正しいのだろう。  しかし私が見たのは記憶にも残らないぼんやりとしたもので、とくに進展がない。  私がこの物語を書くならばそうしているところだが、私を記す者にはそういった演出心はないようだ。  牛頭の男は、あのあとしばらく私を見つめた後、立ち上がるとこう言った。 「再会は好ましいが、この部屋の在り様はいただけない」 「……はい?」  当然の反応だろう。  ホラー映画の定番なら、このまま掴まれて引きずられていくとか、殴られるとか、殺されるとか、いくらでもやりようはあったはずだ。  一度安心させてからの、感情の逆転というものに人類は耐性をつけることができない。  だから私は、目を丸くして固まってしまった。  部屋の在り様。  私が一晩で作り上げた、私の城(ベッドも仕事道具であるパソコンも資料の本もお菓子もすべて手の届く範囲にある)がお気に召さないということのようだが、それをいわれる筋合いは果たしてあるのだろうか、とか。  再会とは一体どういうことか、とか。  そもそも貴方は誰で、どうしてここにいるのだ、とか。  聞きたいことは山のようにあった。  しかしどれをきこうか迷っている私よりも早く、彼は追撃の言葉を口にした。 「片付けろ。今すぐに」 「え、いや、」 「反論も異論も認めん」 「なっ」 「今すぐ、片付けろ」  有無を言わせない圧力に負けて、私はその日一日かけて部屋掃除をした。  せっかくセットした家財道具は一度お預けのように牛頭の男に没収され、既存の家具を撤去してから設置となった。  私一人では到底無理な行動だった、とは思う。  一階を綺麗にしたあとは、二階へ。  両親の部屋はそのまま残っていて、昨日は見ることもなかった自室を覗いた。 「…………」  感慨にふける間もないくらい、こちらもまあ、乱雑なものだった。  幼い私が集めたのであろうぬいぐるみやら人形やらが『当時そのまま』の姿で置かれていて、みんな揃ってこちらを向いていた。 (これは、結構、ホラー、なのでは)  一瞬入るのをためらったが、それでも牛頭の男に背を押されて入った。  それから、埃のかぶった彼らを丁寧に掃除した。  その間、彼は私をたまに手伝ってくれたが、それ以外の時は腕組をしながら監視していた。  まるで刑務官だ。  私の作業をさぼらないように、見張っているかのようだった。  それが終わると、もうお昼ごろになっていて、私は慌てて執筆の仕事に戻った。  気が付いたときには牛頭の男の姿はなく、不思議に思ったが、もう動けるほどの余力もなかった。  考えるまでもなく、ごはんを食べるのを忘れていたせいだろう。  私はノートパソコンを閉じると、リビングテーブルの上で突っ伏したまま朝を迎えた。 「………………」  体を起こすと、背中から何かがずるりと落ちる音がした。  振り返ると、床に布団が落ちていた。  どうやら、誰かが私に布団をかけてくれたらしい。  ……いや、一人しか今のところは思い浮かばないのだが。 (幽霊にしては妙なひとだった。牛頭だし。ということは妖怪? いやいや。ここ、一応家主は私だぞ。不法侵入って、妖怪にも適用されるようになったのだろうか) (とくに殺されはしなかった。危ない目にもあわなかった) (何だったんだろう。掃除させられただけ、だったけど)  ふあ、と欠伸を漏らして体を伸ばす。  変な場所で眠っていたから、あちこちが痛い。 「起きたか」 「ふあ!?」  飛び上がってしまった。  また、彼の声だ。  どうやら台所にいたらしい。奥の方から姿が見えた。 「食事を摂るべきだ。お前、昨日から何も食べていないだろう」  ……まただ。  このひとは、一体、何が目的なのだろう。  そう思って、じっと彼を見つめてみる。  昨日から変わりはない。どこか悲しそうな目で、彼も私を見つめている。  「……一つ、きいても?」  意を決して、私は口を開いた。  彼は黙ってうなずいた。 「名前を、教えてください」  無言だった。  しばらくの間、彼は無言で私を見つめて、それから。  それから、ふいと目線をずらして、呟いた。 「モレク」  小さな声だったが、私にはそう聞こえた。  聞き覚えのあるような、懐かしいような、そうではないような。  不思議な感覚になる名前だった。 「敬語じゃなくていい。それより、食事を摂れ。少なくとも水分を摂れ」  こと、とコップが差し出された。  中には昨日冷蔵庫にしまった緑茶が注がれている。 「ありがとう、モレク」  コップに触れると、まだ少し冷たかった。  私がおきる前から、どうやら用意されていたらしい。  お茶そのものは、常温にだいぶ近くなっている。  ぎい、と音を立てて、彼は私に向かい合うように座った。 (食事。ご飯か。どうしよう、とくに何も買い置きがない)  お茶をちびちび飲みながら、ぼんやりと考える。  もう目の前の奇妙な同居人について考えるのはやめた。  私に害がないのだ。それどころか、私の健康について危惧してくれたり、部屋の掃除を提案し、なおかつ手伝ってくれたのだ。  どうしてウチにいるのかは皆目検討もつかないが、特別不快というわけでもない。  それで十分だと思った。 「……モレク?」 「ん」  名を呼ぶと、彼は当然のように返事をした。 「この辺り、コンビニとかお店は……」 「駅の方に少し残っている」 「あー、あっちかあ。バス乗らないといけないや……」  昔は両親の車で移動するのがもっぱらだった。  二人とも、もう車は売ってしまっていて、私は免許をとらなかったのでそれは今はない。  当時は確かこの辺りに大規模な商業施設を建てるといっていた。  計画が持ち上がり、施工されている最中に私はここを離れたのでその後を知らないが。  見渡す限り荒地なところをみると、途中で頓挫したのかもしれない。 「じゃあ駅の方に買い物にいくしかないかあ。ネットショッピングじゃすぐは届かないもんなあ」  ほんの少しだけ、先日まで住んでいた都会とも田舎ともつかない、そんな町が恋しくなった。  あそこは少なくともコンビニが近くにあった。  人も多少多かったので不快感はあったが、深夜はここと同じだ。  ほとんど人は見かけない。 「ついていこう」  私が立ち上がると、彼も立ち上がった。 「え?」 「俺が行ってはダメか」 「いや、そんなことはないけど」  意外だった。  無意識のうちに、彼はここから出られないのかと思っていたがそんなこともないらしい。  ニットのコートを羽織って、マフラーを巻く。  財布はポケットに放り込んだ。  仕事の連絡が受け取れるように、スマホもポケットへ放り込む。  ちらりと彼を見ると、彼は青いマントを羽織ったそのままで出ようとしていた。 (この格好は、さすがに……コスプレにしては本格的すぎるし、何より公共の場で許可もなくコスプレってのはちょっと)  ここにきて気にするのをやめたはずの彼の存在が気にかかった。  結局このひとは人間なのか、幽霊なのか、妖怪なのか、はたまた、悪魔ってやつなのか。  全く答えは出ていないのだ。  この姿のまま外に出たときのいわゆる世間の目というやつが、わからない。 「えーっと……姿を変えたりは」 「できないことはない。が、お前はこれがよかったのでは?」 「私?」  いや、そりゃ好みではあるけれど。  そんな言葉を飲み込んで、私は苦笑いを浮かべた。 (変えれるってことは、人間の不審者ってセンは消えたな)  この平然とした対応を見る限り、幽霊という感じもしない。  妖怪か、悪魔というやつなのかもしれない。  悪魔はともかくとして、妖怪ならばわかりそうなものではあるが……。 「買い物するなら、えっと、フツーの服の方がいいかなって」  こういうの、と私はスマホの画像から一般的な男性の服装を見せた。  ふむ、と彼は画面を覗き込むと、すたすたと物陰に消えていった。  そうして次に現れたのは、牛頭の大男に違いはないのだが、画像の男と同じような服を着た彼だった。  よりいっそう、頭部に『被り物』感が出てしまった。 (頭も変えれないのか……いやまあ、被り物です、とかでなんとかなるかも)  紺色のピーコートも、ぴちぴちのジーパンもまあ似合っている。  ピーコートの襟からのぞく真っ白なシャツもいい感じだ。  袖から出るのは毛むくじゃらの大きな手で、物語ではよく見かける獣人という物に見える。 「あ、まって、バスの時間調べるから」  スマホの画面を切り替える。  ちょうどよく十分後くらいにありそうだ。  しかし一時間に一本程度の頻度で、いかにも乗らない路線であることは見て取れた。 「大丈夫そう。よし、いこっか」 「ん」  二人一緒に家を出て、鍵をしめる。  誰かと一緒に外出をするなど久しぶりだ。  それこそ、担当編集が家に押しかけてこないとおとずれないイベントだろう。  外気は冷たかった。  九月はもう終わり、十月がやってくるのだ。  あと一ヶ月もすれば雪も降るだろう。  この土地はそうして冬に寒さと白で覆われ、それが解けるとすぐに夏になる。  避暑地として選ばれることもあったが、やがてその寒さと雪の多さですぐに人はいなくなった。  人類は自然には永遠に勝てない。  本土からやってきたひとたちも、ここで生まれたひとたちも、皆、一定の時が経てば本土に帰るのだ。 「……モレクはずっとここに?」  私の呟きに、彼は頷いた。 「もうここには人って住んでいないの?」  見上げると、彼も空を見上げていた。  空は曇っていた。  今にも雪が降ってきそうだ。 「この地区一帯はそうだ。お前が戻ってくるまでは」  バスは遅れることもなくバス停にやってきた。  古びたバスだった。車体のあちこちが錆びれている。  ステップをあがって車内へ。  温かい空気が少し息苦しいと感じた。 (私しか住んでいないって、ヘンな感じ)  二人掛けの席に座った。  隣にモレクが座ると、少し圧迫感があった。  体の半分が彼と接する。……温かい。  時折揺れる車内には、私と彼しか乗っていなかった。  ぼんやりと窓の外を見つめていると、ごつん、と窓に頭をぶつけてしまった。 「……いたい」 「だろうな」  頭を押さえていると、ふいに体が彼へと引き寄せられた。  必然的にその温かい体に寄り掛かるようになってしまって、私は思わず彼を見上げた。 「こちら側に倒れておけ。そうすれば、痛いことはないだろう」 「…………うん」  服越しに、彼の体がもこもこしているのがわかった。  それがなければもっと、そうだ、たくさんの毛が私を包むのだろう。  そう思うと、少しもったいない気もする。  いや、服を脱げ、とは言うつもりもないのだが。  しばらく揺られていると、景色が森へと変わっていった。  ここを抜けると駅だ。  この山道も、小さい頃はよく自転車で来たものだ。 「わー……民家がほとんどない」 「この辺りの人間が住んでいた民家はほとんど取り壊されている」 「ああ、そうなんだ」  もっとふもとの方に降りると、確か美術館があったはずだ。  あの場所には一度もいかなかったが、今はもうないのかもしれない。  ほどなくすると、バスは山中のバス停で停車した。  ……どうやら誰か乗車するようだ。 (一体誰が?)  そう思って乗車口に視線を向けていた私は、そうしていたことを少しだけ後悔した。 「いやあ、寒かったですねえ」 「ああ、たまらんな」  乗ってきたのは、老夫婦だった。  しかしただの老人ではない。  体躯が小さいのはもちろんだが、この二人、おそらく──。 「おや。珍しい、人間と憑きものが乗っていますねえ」  老婆はこちらをみるなり、そうつぶやいた。  右手には青い蛇を、左手には赤い蛇を巻き付けている。  男の方は顔つきがおかしい。どこか爬虫類というか、そうだ、蛇のような。 (──妖怪だ……)  物書きなんてしているからだろうか。すぐに私の頭にはピンとくるものがあった。  一応頭には創作アイテムとして、いくつかの妖怪が入っている。  おそらく彼らは『蛇骨婆(じゃごばあ)、蛇五右衛門(じゃごえもん)』の二人だろう。  夫婦でセットになっている妖怪だ。  確か、東北の山奥に住んでいると記されていた気がする。 「おやっ、ホントウだ。まだ残っていたとはなあ」 「ええ、ええ。驚きですね。そしてこちらを見ても悲鳴一つあげやしない」  ……どうやら私のことを言っているようである。  二人は前方の二人掛け席に仲良く腰掛けた。  それを見計らったかのように、バスはその後発車した。  発車してまもなくのことだった。  蛇骨婆がこちらを振り返った。 「お嬢さん、ここにはどうしていらしたの?」  身にまとっている着物は上質そうだ。  蛇は確かに両腕にそれぞれ巻きついているが、それ以外は品のよいおばあさんといったふうだった。  白髪の頭も、その顔つきも、蛇五右衛門に比べれば人間のソレに近い。 「あの、引越しです。実家が残っていて、戻ってきたんです」 「あら。どちら?」 「黒井丘です。ここから、四つくらいバス停戻ったところの」 「ああ、あの。周りはなあんにも無かったでしょう?」 「はい。久しぶりにきて、びっくりしました」  よかった。話は通じそうだ。 「でも、どうしてまた戻ってきたの? ここには仕事も、人間も、何もないでしょう?」  私はこくりと頷いた。  そうみたいです、と呟いた。 「両親が海外に行くとのことだったので、家が空くといわれて。幸い私は有名ではないんですが、作家なものでして。どこでも仕事ができるものですから」  今考えれば不思議な話だ。  それほどまでにあの家は大事なものなのだろうか。  別に私が戻らなくても、周り同様、売り払うなり、取り壊すなりすればよかったのだ。 (そうしなかった理由は、聞きそびれた)  残念ながらもう電話はつながらない。  二人とも、そのくらい遠くに離れてしまった。 「まあ、作家! いい職業に就けたのねえ」 「ありがとうございます」  軽く会釈すると、蛇骨婆の蛇と目があった。  二匹ともこちらを少し警戒しているようで、シャーッと声をあげている。 「お隣は旦那さん?」 「えっ」  そう尋ねられて、思わずモレクを見上げた。  彼がどう思ったのかはわからないが、モレクはぐい、と私をその大きな腕で抱き寄せた。  蛇骨婆はそれを肯定と受け取ったらしい。  にんまりと笑みを浮かべると、「うふふ」と前を向いてしまった。 (旦那、て、そういう意味、だよね?)  少なくとも屋敷の主人を意味する言葉には聞こえなかった。  じ、とモレクを見上げたが、彼もまた、前をじ、と見ている。  ……私の肩には、彼の大きな腕が乗ったままだ。 (再会を喜ぶ、とか言ってたっけ。私は彼と何処で出会っているんだろう)  次第に視界がまどろんできた。  あたたかさに包まれているからなのかもしれなかった。  いつの間にか蛇骨婆も蛇五右衛門も下車してしまっていて、私とモレクは終点の南峡駅にたどり着いていた。 「んー、だいぶ寝ちゃった」  バスから降りると、私はぐんと体を伸ばした。 「お客さんて、あの二人だけ?」 「……いや。その他にも数名」 「人間?」  私の問いかけに、彼は首を横に振った。  降りた先の駅は相変わらずがらんとしていた。  昼間だというのに人っ子一人見かけない。  子供連れの母親とか、サラリーマンとか、そういったふうの人もない。  ただ、駅に隣接されているショッピングモールは営業しているらしく、一応明かりがついていた。 「さっきの二人は、妖怪だったよね?」 「老夫婦のことか」 「うん」 「その通りだ」  横断歩道を渡って、ショッピングモールへ。  車通は全くない。  かわりに紅葉がくるくると道路で舞っている。 「この町は、妖怪とか、そういうものに奪われちゃったの?」 「いいや。人間がこの町を捨てたから、彼らが拾ったという方が正しい」 「捨てた……」  整備のされていない道路。  整備のされていない歩道橋。  寂れた建物と、錆付いた建物。  壊れた街灯と、あちらこちらに散らばる廃材。  いつかテレビで見かけた不法投棄の問題を思い出した。  まだ使える電化製品や家財道具を不法に投棄する輩がそういえば特集されていた。  その延長線上に、『町を捨てる』という行為はあるのだろうか。 「住民票は出しにいったか?」 「ううん。ネット上で手続きしたから、庁舎にはいってないけれど……え、うそ、まさか」 「ああ。市役所はもはやほとんど機能していない。一応数名いるようだが、それがこの町におけるお前以外の人間の全てだ」 「まって、それなら市長は? 市長って、どうなっているの?」  信号が赤から青へ変わる。  モレクに遅れないように、早歩きで横断歩道を渡る。 「それにお金! バス代はきちんと払えたし、ドライバーだって……」  ずる、と足が横断歩道の白線にとられた。  倒れかけた私の体を、モレクが支えていた。 「お前、世俗から切り離されでもしていたのか?」  そのままモレクに俵担ぎのようにされて横断歩道を渡ると、顔が真っ赤になるのを感じた。  いい年して、子供扱いされるのは、どうにも堪えた。  何しろ今年にはもう三十近くなる。  二十代の前半は終わっているのだ。 「国民特例法は周知徹底されていたと思うが」 「……も、もちろん。人間もそうじゃない妖怪たちもみんな国民だよっていうやつでしょ?」 「その通りだ。その中に、通貨は今までどおりのことや、妖怪であっても市長になれることなどが明記されている」  しれっといわれて、私は、目を丸くしてしまった。  つまり。  それはつまり、私の現在住むこの南峡市は。  ここの市長は、『妖怪』ということになる。 「作家業は素晴らしいと思うが、政治のことくらいは頭に入れておけ」  正論である。  確かにテレビもつけない日はたくさんあった。  まさかそれを、両親や友人でもない、牛頭の男に諭されるとは思いもしなかった。  歩道に降ろされて、前を見上げるとショッピングモールがそびえたっていた。 「ここはあんまり変わってないね」  外壁もさほど錆びが目立たない。  どこもはがれていないし、丁寧に手入れされているように見えた。 「この町では唯一大きな建物だ。妖怪たちも気に入ったらしい」 「え、じゃあ、彼らが?」 「ああ。手入れから仕入れ、販売も何もかも、彼らがこなしている」  中に足を踏み入れると、昔と変わらない店内音楽が聞こえた。  ほっと安堵する。  入口から見える景色も、さほど変わりはない。  入ってすぐに見えていたファッションコーナーも少々趣味が老人チックになったことくらいだろうか。 「あ! 栗!」  時期に合わせてだろうか、小さな屋台が入口に現れていた。  香ばしいかおりがしている。  そういえば、こんなもの、昔もよくみた気がした。 「おいしいよ。買っていくかい?」 「はい!」  店主の男に話しかけられて、私はてこてこと駆け寄った。  男はニット帽をかぶっていたが、その帽子から大きな角が見えていた。  おっとこのひともどうやらニンゲンではないようだ。  まあ、それも今となってはどうでもいい。  何しろ焼き栗だ。  焼き栗は私の大好物の一つである。  最近はめっきり見かけなくなったが、昔はよく母親に買ってもらったものだ。 「お前、子供みたいにはしゃいでいるな」  背後からモレクに声をかけられて、思わずびくりと飛び上がってしまった。  そんなに顔に出ていただろうか。 「そんなに好きか。それが」 「むっ。美味しいよ、焼き栗は。ほくほくして、腹持ちもいいし!」 「そうか」  ふ、とモレクが微笑んだ。  本当に一瞬のことで、私はぴしりと固まってしまった。 「ほい、どーぞ」 「あ、はい!」  慌てて手を差し出すと、手のひらに温かい熱が乗った。  紙袋いっぱいに詰められた栗からは、とてもいい香りが漂ってくる。 「熱いからね、気を付けてね」  男はにっこりと微笑むとそう言った。  知り合いではないのに、それがひどく懐かしいように思った。  手にはめた軍手だとか、身にまとっているボロボロのダウンジャケットだとか。  そういうものに、そんな感情を錯覚したのかもしれない。 「俺が持とうか」  モレクが傍らでそう言った。  私はふるふると首を横に振った。 「私が持つ。栗のね、いい香りがするんだ。これがすごく好きなの」  すると、モレクは不思議なことにまたふっと微笑んだ。  一体何がおかしかったのだろう。  小首をかしげる私の頭に、ぽん、と手を置いて満足そうだった。 ***  モレクの言う通り、従業員も客もすべてが人間ではなかった。  レジを打つお姉さんの首は長かったし、品出しをしていたのは鬼だった。  エプロンをつけた姿はよく似合っていた。  売っている商品も私のよく知るものだ。野菜も肉も、とくに変わりは見られない。 「なんか、もっとおどろおどろしいものを売ってるのかと思った」 「なぜ?」 「ほら、物語ではニンゲンを食べてたりするでしょ。だからかな」  私が書き記した物語も例外じゃない。  それっぽくみえるように、あることないこといっしょくたに書いた。  人間が怖がるように、そうしたつもりだ。 「……本当はそんなことないのに」 「そんなこともない」 「えっ」  まさか否定されるとは思わなくて、私は思わずモレクを振り返った。  手に取ったキャベツがころりと落ちる。  慌てて姿勢を崩したが、先にモレクがキャッチしてくれた。 「ニンゲンと我々は違う。常識も、文化も、価値観も」 「…………」 「思っていたよりも『近い』程度で惑わされるな。連中がお前を『同じ』と思っているかどうかわからんぞ」  そういうと、彼はキャベツを私に手渡した。  つまるところ、私に心を許すなと言っているように聞こえた。  今のところ命の危険などは感じていないし、そのような敵意も向けられていないのだが……。  ああ、いや。  ふと、初めて出会ったときのことを思い出した。  掃除をしろといわれたとき。  食事をとれといわれたとき。 「……もしかして、心配してくれてる?」  おそるおそるそうきくと、彼はふいと顔を横にそらした。 「お前に死なれると、俺が困るんだ」 「……っ」  ぎゅう、と胸が締め付けられる気がした。  どうしてかはわからず、私は胸に手を当てた。  心臓がどくどくと騒がしく脈を打っている。 「──お前は、忘れてしまっているのかもしれないが」  モレクは、私の頬にそ、と触れると、呟いた。 「俺は、お前の死後、その魂を得ることを契約した悪魔だ。予定より早く死なれては困る」  ……はい? 「ちょ、っと、待って。……え? それは、どういう?」  せっかく持っていたキャベツをまた落としそうになった。  心臓の鼓動が違う意味合いで早くなる。  もはやときめきなのか、恐怖なのか、困惑なのか、動揺なのか検討もつかない。 「言葉の通りだ。お前は幼き頃、俺と契約し、死後魂を俺に引き渡す契約をしている」 「な……」 「ずっと待っていた。お前が帰ってくるのを、ずっと」  ──ずるい、と思った。  頬に触れる手を振り払おうという気にもなれないくらい、彼の目はまっすぐに私を見ていた。  私がずっと本で触れてきた、物語における『悪魔』のする目とは到底思えなかった。  どうして、こんなに。  このひとは最初から──切なそうに、私を見るのだろう。 「私を殺す機会をうかがってたとか……?」  そうきくと、モレクは首を横に振った。 「いいや。天寿を全うしたお前を、俺は連れていく」 「天寿って、寿命ってこと?」 「その通りだ。教えることはできないが」  口ぶりからすると、その天寿というものは程遠いようだ。  どうやら私はもうしばらく生きる予定があるらしい。  キャベツを買い物かごに放り込む。  それからネギも。じゃがいもも。さつまいもなんかも放り込む。 「そっか」  だいこんも放り込むと、かごがずっしりと重くなった。  かぼちゃも買いたいというのに、片腕で持つのも少ししんどい。  そう思っていたらモレクがそっとかごを私から奪い取った。  両腕が重さから解放される。 「モレクは何か食べられないものとかある?」 「……ずいぶんと脈絡もなく話が変わるな」 「うん」  頷いて、私はかぼちゃを手に取った。  大きくてずっしりしたかぼちゃだった。 「だって、今すぐ死ぬわけじゃないし。期限が決まってるのも悪くないっていうか」  それだけ聞ければ満足だと思った。  難しいことはよくわからないし、記憶も定かではないけれど、人間はいつか死ぬものだ。 「死後行き先はもう決まっていて、死ぬまで心配してくれるひとが側にいる。これって、幸せじゃない?」  へらっと笑うとモレクはきょとんとした顔をした。  その手の持つかごに、ほうれん草とブロッコリー、たまねぎも詰め込む。  里芋も新モノが出ていた。ほほう、煮っ転がしにしたら美味しそうだ。 「モレク」  一袋手にとって、かごに入れた。  もうだいぶ買い込んでしまったが、食べきれるだろうか。 「改めて、これから死ぬまで、よろしくね」  そういって私が手を差し出すと、 「……ああ」  といって、モレクは手を握った。  今晩は久しぶりにグラタンを作ろうと思った。  そう思ったら、アスパラも目に付いた。きっと美味しいだろう。  かごの中はすでに食材でいっぱいだ。  けれどまだ足りない。  一週間分の買いだめを計画しているのだ。  朝昼晩適当に食べてすごすのもまた一人暮らしのラクなところだが、私はもう、一人ではない。  せっかく二人なのだから、これからは、ちゃんと美味しいものを食べようとそう思った。 「今晩ね、グラタンにしようと思うんだけど」 「ほう、グラタン」 「知らない?」 「フランスのドーフィネ地方発祥の郷土料理から発祥したものだったか?」 「待って。それこそ私知らない。何、そうなの? フランスの……どーね? え?」 「オーブンなどで料理の表面を焦がすように調理するという調理法を用いられた料理を意味する言葉だったと思ったが。俺も暴食ほど詳しくは知らない」  野菜売り場を通り抜けて、粉もののコーナーへ。  小麦粉をかごにいれて、それから乳製品へ。  たくさんのチーズが所狭しと並ぶそれをじっくり眺めて、私は少しお値段の高い、いいチーズを手に取った。 「あ、そうだ」 「?」 「えへへ、どうせなら美味しいものがいいよね」  手に取ったチーズをかごに放り投げて、私は来た道へと踵を返した。 「どこへいく。さっきそっちは通っただろう」  背後からモレクの声がする。  ちゃんと追いかけてきてくれているようだ。 「買い忘れ!」  振り返らずにモレクに答えた。  見失うことはきっとないと、不思議とそう信じることが出来た。  お目当ては粉もののコーナー、大体どこのお店にも必ずある小麦粉だ。  今晩のグラタンは、小麦粉にバターをあわせて作る、ホワイトソースから、手作りしよう。
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