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「最初は、ここですわね」
三四さんが指さした先にあるのは、とても人が住めそうにないプレハブ小屋のような建物だった。乱暴な打ち付けの壁に、トタン屋根。今にも倒れそうな佇まいだ。どんな人物が住んでいるのか見当もつかない。
「ふむ。分かりました、行ってきます」
そう言って先生は小屋の入り口へと迷いなく入っていく。待ってほしい。どんな危ない住人が待ち構えているかも分からないし、小屋だっていつ物理的に崩れ落ちるか知れない。そんなところへ先生一人で行かせてしまうのが恐ろしくて後をついて行こうとしたら、何故か三四さんに止められてしまった。
「いけませんわ。貴方が行ったら効果が半減しますもの」
「どういうことですか! 先生の身にもしものことがあったら――」
建物内から長い叫び声が聞こえて、ぼくは一瞬凍りつく。
――違う。先生の声じゃない。冷や汗を握りしめながらひとまず胸を撫で下ろしていたら、若い男が尻もちをつきながら勢いよく転がり出てきた。
「――いぎゃあああ! 出た! 出たぁああああ!」
「ハイ、確保♪」
地面を這いながら飛び出してきた男の背中を、すぐさま三四さんが踏んづける。ぐえ、と声を上げて哀れな住人はその場に倒れ伏した。すーっと追いかけてきたらしい万世先生が、無表情のまま男をじっと見下ろす。
「ごきげんよう。家賃払いますか。それともすぐに出て行きますか」
「ひ、ヒィーー払います! 払いますから近寄らないで!」
しぶしぶと懐の財布からよれたお札を二枚差し出すと、男は半べそになって念仏を唱えながらプレハブ小屋の中に逃げ帰っていった。
また次の建物へと乗り込んでいく先生を見送りながら、ぼくは目の前で繰り広げられた寸劇にすっかり白目を剥いていた。
「ほら、この通り。適役じゃなくって?
万世さんって、お化け屋敷に出てきそうでしょう? 幽霊とか妖怪役で。なので、初めて出会う家賃滞納者は彼を恐れて結構な確率で支払ってくれますのよ」
なんということだろう。
ぼくの尊敬する先生が、そんな理由でいいように使われているなんて。三四さんはくすくす笑っているが正直ちょっと腹立たしい。
「でもどうしてですか? 確かに先生は雰囲気は多少変わってますけど、大の大人がそこまで怖がるような理由なんて――」
ぼくも最初先生に出逢った時はうっかり『死体』と勘違いしたけれど、あれは先生が食うに困って、青白い顔で痩せこけながら倒れていたからだ。今はぼくが毎日良質な栄養を与えているので肌つやがいい。
確かに先生は人よりは妖怪に近い雰囲気をまとっているし、黒づくめの装束はいかにも浮世離れしているけれど、遭遇するなり悲鳴を上げて怖がられる程ではないと思う。体つきは薄っぺらいし、顔立ちだってぜんぜん怖くないし。
「――あぁそれは。
この迷宮通の物件の多くが『心理的瑕疵物件』だからですわよ。皆さん何か出るんじゃないかと怯えながら生活しているんですの。いかにもホラーっぽい万世さんが何の前触れもなくいきなりやってきたら、勘違いするのも無理ありませんわ」
「シンリテキカシブッケン?」
「えぇ。分かりやすく言えば『事故物件』。人が亡くなったり怪奇現象が起きたりしたことのある、いわくつきの物件ですわ。その代わり家賃を市場流通価格より大幅に安く設定してあるので、家計の為に納得の上で住んでいる方も多いんですの。貴方がたの探偵舎だって――そうでしょう?」
なるほど、そういうことか。
うちの部屋の片隅に浮かび上がる地縛霊のサラリーマンの姿を思い出す。
「万世さんも快く引き受けてくれていますし、Win-Winの関係ですから、口出しは厳禁ですわよ。もし口出ししようものなら――問答無用で家賃を引き上げますからね」
三四さんが家賃管理を任される理由が分かった気がするし、この人はとんでもなく恐ろしい女性だなということも、この数分で充分すぎるくらい理解した。
早く帰りたい気持ちでいっぱいになりながら、ぼくはプレハブ長屋から先生が帰還するのを、ただひたすらに待ち続けるのだった。
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