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住人らしき姿は、見当たらない。
悲惨な現場に出くわすことだけは避けられたようで、ほっと胸を撫で下ろす。待機していた三四さんを呼び寄せて、部屋の状況を一通り確認することにした。
「それにしても、この匂い――」
部屋に満ちていたのは、油絵の具の匂いだ。
おびただしい数の油絵が部屋の至るところに立てかけられているのだ。床にはきっちりと新聞紙が敷き詰められていてところどころに絵の具の滴が落ちている。棚に置かれた画材。刷毛やパレットなんかの道具。
ここの住人はどうやら『絵描き』らしい。
絵が沢山置かれていることを除けば、外観の薄汚さからは想像もつかないくらい小奇麗な誂えだ。ちゃんと人が住んでいる様子がある。
「――部屋の主は、相当慌てて部屋を空けたようですね。絵筆についた絵の具も落とさず、調色皿もそのままになっています」
先生が持ち前の観察眼を発揮している。
「困りますわね。せめて家賃だけでも置いて行って下さればよかったのに」
「それって……突然逃げ出したってことですか? ぼくは芸術のことはよく分かりませんが――いくら金銭的な余裕が無くなったとしても、折角描いた自分の作品を置いて行ってしまうなんて勿体ない気がします。こんなに何か言いたげな力強い絵なのに」
絵画と言えば『家』の大広間に飾ってある歴代当主の肖像画くらいしか見たことが無かった。そんなぼくでも、キャンバスの上で踊る色彩の迫力に引き込まれる。近寄ると叩きつけた筆の跡までくっきりと見てとれた。作者の感情に呼応して、絵の具が生きて動いているみたいだ。
「迷宮通の物件には――向き不向きがあるのですよ。相性さえ合えばとても住みよいところなのですが……」
壁にある唯一の窓から射しこんでくる西日が、いやに眩しい。
そろそろ夕暮れだ。黄昏時の迷宮通は、どこか物寂しく、別世界に迷い込んだような不思議な心地がする。今と昔。この世とあの世。人と妖。何色もの絵の具を混ぜ合わせるように、あらゆる境界が曖昧な色彩の中へと融かされてしまうのだ。
「合わない方にとっては――住める場所ではないでしょうね」
開けっ放しにしていた玄関から、ふわっと生温い風が入り込む。
その拍子に中央のイーゼルに置かれた絵にかかっていた布がめくれて、製作途中と思しき一枚の絵が顕わになった。
あまりの異様さに、ぼくは思わず息を呑んだ。
その絵には、この窓から見えたであろう町並みの風景が緻密なタッチで描かれていた。
しかし何故か途中から――ぐちゃぐちゃと真っ黒に塗り潰されていたのだ。
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