第八話「とりたて」~事故物件の黒い絵~

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「恥を知れ! この名画泥棒ども!」  ツルハシを手に襲いかかってきたのは、大きなリュックを抱えたベレー帽の男性。ぼくより少し年上だろうか。長い前髪で目元が隠れている。見るからに『変わり者』といった風体だ。  男の前に立ちはだかるように、先生が咄嗟に進み出た。黒装束の胸元からさっと白い紙のようなものを取り出す。まさか、お(ふだ)? 凶器を持った人間にお(ふだ)? 効くのか? 「――四ツ谷(よつや)ハウジングの者です」  万世(まよ)先生が男に突き付けたのはA4の紙きれ一枚。 『家賃滞納につき家宅捜索する』という、パソコンでべた打ちしただけの文言が踊っていた。法的拘束力も何も無いはずだが、先生があまりにも自信たっぷりに見せつけているものだから、 「あぁっ……何ということだ。滞納! 作業に夢中で家賃の概念をすっかり失念するとは! 恥知らずの罪人はこの俺のほうだったか!」  意外にも絶大な効果を発揮しているようだった。 「家賃を払って頂けますか」 「だが! 逸脱は芸術行為。固定観念からの脱却であり解放。ならばこれは最善の美を探求する為には必要な罪……喜んで俺は悪となりその罪状を引き受けよう」 「そうそう。さっきツルハシで傷つけた廊下の補修費用も後日追加で請求しますわね」 「ーーなんという無情!」  三四(みよ)さんの一言でとどめを刺された家主が、大袈裟に宙を仰いだかと思うと、その場にがっくりと崩れ落ちた。独特なテンションな人だ。その足下に『もじゃさん』がずるるずるるとすり寄って、触手のような腕をくねらせている。 「えぇと、もう聞くまでもない気がするんですが――あなたがこの部屋の住人さんですよね。長い間お留守のようでしたけど、一体どこへ?」  この部屋の住人である二十二才の画家の卵――九住(くすみ) 駿(しゅん)と名乗った――は、抱えていたリュックの中からごそごそと大きな風呂敷包みを取り出した。 「おお、聞いてくれるか! こいつを調達する為に山奥に野営して籠もっていたのさ」  風呂敷の中からごろんと現れたのは、黒く焦げた細長い塊。何かの動物の骨を黒焦げになるまで焼いたもののようだ。 「ほう――『骨灰』ですか」 「その通り! 地層に埋まった猪の骨を掘り出して、缶でじっくりと蒸し焼きにしてある。これを磨り潰して(にかわ)に混ぜて『黒色』の絵の具を作るんだよ。  一週間前の夕刻――俺はこの窓辺で、まさに芸術の女神が与えてくれたとしか思えない運命的な出逢いをした! 命を宿した美しい闇が、この窓に張り付いていたんだよ。しかぁーし! あのを画布に写しとろうとしたら、手持ちの植物性の黒では。同じ色名でも顔料によって印象は百八十度変わる。どうしても『骨灰(ボーンブラック)』の有機的な温かさが必要だったのだ! それで、網膜に焼きついているうちに急いで部屋を飛び出したというわけだ」  炭になった骨を細かく砕くと、恍惚とした表情を浮かべながら乳鉢でごりごりとすりつぶしている。 「ふふはははっ……高まってきた! 高まってきた! これで、次に『彼』が現れた時にはより完璧に近い状態で描いてあげられるぞ――あぁ早く描きたい! また逢いたい! 事故物件か何だか知らんが格安の家賃につられて 迷宮通(めいきゅうどおり)に越してきて良かった! 素晴らしい物件を紹介してくれて有難う君たち!」  九住(くすみ)氏は、感極まった様子でぼくたちと順番に固い握手を交わし始めた。先生の手に家賃分の万札を握らせると、 「ーーでは作業したいのでこれで」  高笑いしながら部屋の奥へと消えていった。『もじゃさん』はすっかり我が物顔で彼の肩の上に居座っている。相変わらずどこが顔なのかは分からないけど、随分と嬉しそうなのはぼくにも伝わってくる。今は家主には姿が視えないようだけど、この調子ならきっとうまくやっていくことが出来るだろう。  横目でちらりと見てみると、先生もほっとした表情を浮かべている。穏やかなその顔を見ていると、ただ付き添っただけのぼくのほうまで一仕事終えたような満ち足りた気持ちになるのだった。
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