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宿舎の部屋。
静けさの中、備え付けの浴槽に冷たい水を張る音だけが響いている。その脇に置き物のように控えている、ぼさぼさ頭の青年。脱ぎかけの黒衣を肩に引っかけている。掌で水をほんの少しすくい取り、首をかしげた。
静寂を破る、けたたましい物音。物凄い勢いで迫りくる何か。
気配は、浴室の戸のすぐ向こうにまで近づいて――。
*
「先生ぇぇぇぇぇぇぇ!! ご無事! ですか!」
息をぜぇぜぇ切らしながら、すっかり今の自分がほぼ全裸に近い状態であることも忘却して、勢いよく浴室になだれ込むと、そのまま万世先生に抱きついた。良かった。本当に良かった。先生はちゃんと生きている。ご無事でいらっしゃる。
先生はぼくの腕の中でもがきながら、服のボタンを留めなおし着乱れを正している。ちょうど服を脱ぎかけていたところだったらしい。
「七五三君――どうしたんです。その格好」
怪訝そうな目で見上げてくる。
「すみません。心配になって急いで切り上げてきたんです」
「急ぎ過ぎです。これでは風邪をひいてしまいますよ」
「いいんです! 先生の身に何かあったらと思うと服を着る間も惜しくて――」
「……分かりましたから離れてください」
泥がついていますよ、と言いながらぼくの汚れた足をごしごしと掌と濡れたタオルで擦ってくれた。ああ。先生はいつもながらお優しい。こんな状況でもぼくのことを気にかけてくださっている。先生のぬくもりを心に沁み込ませて気力を充填しながら、ぼくは先程の異変について説明した。
「この村、やっぱり変ですよ。白装束どころか何かゾンビみたいなのが大勢いたんです! きっと白装束集団が行っている儀式と関係が――」
「あぁ、七五三君。ここか。いきなり一人で走っていくからびっくりしたじゃないか」
「もー! ミルミルも早く服着なよ」
戸が開いて、都九見さんと五夢が顔を出す。もう二人ともすっかり服を着込んで身なりを整えていた。半裸のままなのはぼくだけらしい。今の恥ずかしい状況に気付いてしまったぼくは「着替えてきますね」と浴室を後にした。
「さて、と。状況を整理しなくちゃ。腹ごしらえしながら作戦会議といかないかい? 湯冷めしないように体も適度に温めないとね」
じゃーん、と都九見さんが荷物の中から直方体の箱を出してくる。『純米大吟醸』と書いてある。いつの間にかこの地方の地酒を手に入れていたらしい。
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