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【三日目 午後七時半 七五三 千】
――今のは何だ。誰かの記憶?
白昼夢のように視えた光景。この黒いもやが視せたのか? ぼくはどうにか動くようになった体に鞭を打ち、四つん這いのまま先生達との距離を縮めた。
「……そういう、ことだったんですね」
万世先生が、静かに呟く。
つう、とその額から血の筋が幾筋も垂れ落ちて、瞼をしとどに濡らしていた。
「貴方の正体は分かりました。深い恨みの念も。
ですが、もう二百年余りが経ちました。当時の村人達は鬼籍に入って久しく、今の子々孫々に罪はありません。彼らは何も知らないのですから」
こんな状況なのに――先生の声は、ひどく心地よい。
高くも低くもない錆びた声音。でも不思議とよく通る。すとんと耳の奥から心の底にまで落ちてきて、根を張っていく。
「今、貴方と同じような意志を持った現代の者たちが、懸命に病の治療に当たっています。これ以上恨んでも、関係ない者達を巻き込んでも、仕方が無いのですよ」
ざああ、と木々が鳴る音。
周囲に立ち上っていた黒いもやが、ご神木の幹を抱きしめていた両の腕を這い伝い、先生の体に吸い込まれて消えていく。まるで立ち込めていた濃い霧が晴れていくように。
「僕は――七十刈。『なぞ』を解き、真実を視る者です。歪められてしまった歴史を、あるべき姿に正すことを約束します。――ありのままの事実が、貴方という人のことが、後の世に正しい形で伝わるように」
はらり、はらりと。ご神木の枝から降り注ぐ黄色い雨。
『槐』の浅黄色の花が、生命力を絞り出すように、満開に咲き誇り、花弁を散らしていた。
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